例会報告
第80回「ノホホンの会」報告
 

 2018821日(火)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問) 

当初予定していた7月例会は、梅雨明け後に身の危険を感じるほどの酷暑が続いたため、急遽8月に変更しました。今回の書感やエッセイにはあまり反映されませんでしたが、米朝首脳会談の今後の行方やスポーツ連盟、大学の危機管理能力問題など、テーマは豊富にありそうです。

例会後は、恒例の暑気払いを近くの蕎麦屋で、ご夫人方も参加で大いに盛り上がりました。料理、酒とも大満足で、鰻や忘年会もお楽しみに。ホツマエッセイの続きは、次回にお願いします。 

(今月の書感)

「中央銀行は闘う─資本主義を救えるか」(致智望)/「七転八起 学びを回避する学生の理解と支援」(狸吉)/「ウニはすごい バッタもすごい」(恵比寿っさん)/「激動の日本近現代史」(山勘)

(今月のネットエッセイ)

「働きかた」(本屋学問)/「「半端ない」 ? 日本語軽視」(山勘)/「マンデラ政治は過去の幻影か」(山勘)/「イセの道とスズカの道とオホナムチが出雲を去った経緯(ジョンレノ・ホツマ)

  (事務局)

 書 感
中央銀行は闘う─資本主義を救えるか/竹森俊平(日本経済新聞出版社 本体2,000円)

 著者の竹森俊平は、慶応大学経済学部修了後、米国ロチェスター大学経済学博士を取得、現在慶応大学経済学部教授を務め、経済学関連の著書を多数上梓している。

 本書には、「資本主義を救えるか」と言う副題がついている。ユーロは、経済理論の軽視と政治の道理を無視して出来ていると決めつけ、その根拠を理論的に解析し、やがて起こるであろうEU 発の経済危機を中央銀行が抑えられるかと言う、中央銀行の立場からユーロの矛盾点、正常化へ向けた可能性が論じられている。

 歴史の教訓を踏まえて、実証的・理論的に探るのが、本書の趣旨であり、ハウツー的な書ではない。私としては、些か難しい書に挑戦してしまった感は拭えない。

 ある国は好況で、別の国は不況と言った事象は当然起こることで、好況の場合は中央銀行が引き締め政策を取り、不況の国の中央銀行は緩和政策を取る。それによって、不況の国の為替レートが安くなって輸出に有利になるといった調整のメカニズムが働く。しかし、ユーロにはそのメカニズムが無い。その為、ギリシャ危機への対応では、EU中央銀行が財政破綻の疑いのある国の国債を買い支える行動に出た。

これは、金融史上の恥なのか、称賛すべき行動なのか、中央銀行がここまで思い切った行動に出たことは異例の注目すべき事柄で、その行動はマクロ経済学の教科書にも金融経済学の教科書にも載っていない、特殊で注意すべき領域に踏み込んだ事件と言う。

 「経済学の教科書に載っていない新しい領域」には、もう一つ取り上げなければならない事件としてリーマンの倒産がある。リーマン・ショックと言われる事件であり、この時多くの企業が打撃を被り、アメリカの失業率が10%まで悪化した。しかし金融セクターは、目覚ましい業績回復を遂げ、ゴールドマンサックスやJPモルガンなどは史上最高益を達成し、危機の最中に史上最高のボーナスを弾むと言う事件。

 この時の主役人物、まさに神と悪魔の2面性を持った人物としてゴールドマンサックスのCEOである、ブランク・ファイン氏が話題となった。危機の発生時点では、ゴールドマンサックスも過剰な貸し出しの結果、四半期ベース初めての赤字を計上していた。

 一時は、自殺を図る思いであったと謙虚な発言も有った、しかしリーマン倒産時にワシントンから受けた資金を企業に貸し出し、企業が蘇り「我々は社会的な使命を果たした」と開き直った。皮肉な笑みを浮かべ、「国民を馬鹿にしたデブ猫と呼んでくれても良い、そして彼の最後の言葉は「神の僕に過ぎない銀行家なのだ」であったと言う。

 本書は、中央銀行という組織がもはや経済学の教科書に掲載されない、定義さえも不可能な領域に足を踏み込んでいるという。政治と中央銀行の境目が消滅していると言う。なぜそうなったのか。それは、最後の貸し手と言う言葉が、広く、解釈されていって、ついに欧州統合の救済者、立役者と言うところまで、中央銀行の役割が押し上げられたプロセスの結果だと言う。

 この壮大な変遷の物語を解き明かす論点が本書の趣旨であり、「最後の貸し手」と言うコンセプトが誰の考えだったか。中央銀行の役割とどのような関係があるのか、物語のすべてはそこから始まる。

 と言う事で、本書の論点から始まるのであるが、経済学者の理論は難しいのか、当たり前のことを大上段に構えて、今更「何」言っているか、一介の電子技術者であり、ベンチャー企業経営者の私には、理解の外でしかない。

 とは言え、やがて起こるであろう、ユーロ危機などと言われると、私でも黙って居られない、これから勉強するつもりで、決して安くはない書を購入してしまつた。

(致知望 2018年7月8日)
七転八起-学びを回避する学生の理解と支援/鈴木賢治(オフィスHANS 2018年)本体1,400円)

 序文に「サークルやアルバイトなどの副業は問題なくできるが、本業には意欲が感じられない。」とあり、ダメ学生だった頃の自分を思い出した。本書は大学教員である著者が中退者の増加傾向を憂い、その傾向を押し留める方策を論じたものである。ただし、本書は手軽に対応策を教えるノウハウ本ではない。まず現状と原因を理解させ、その上で可能性のある救済方法を提起するものである。
 
 実は読者である私も、中退が大学で問題になっているとは知らなかった。試みにネット上で調べたら、たしかに中退は増加傾向にあり、中退する理由は1位:経済的理由、2位:転学、3位:学業不振、4位:就職、5位:病気・けが・死亡、6位:学校生活不適応とあった。出典は文科省の統計だから嘘は無かろう。この内1位と5位は致し方ないが、その他は皆学業回避の類と思われる。

 著者はまず第1章「こころ」の発達で、人生にとって健全な「こころ」を持つことが大切であり、それが乳幼児から大人に成長する過程で間違った育てられ方をすると、歪んだこころが形成されると警告する。それはやがて学業回避へと発展する。心の健全な発達のためには、大人は子供に対し甘やかしても、無関心であってもいけない。

 続く第2章「困難を抱えた学生の理解」で、著者は学業回避の実態を様々な例を挙げて説明する。具体的には授業に出ない、試験を受けない、しかしアルバイトやサークル活動には熱心に参加する、等である。こうした学生に問題点を指摘すると、「はい、分かりました」、「明日から授業に出ます」と素直な返事はするが実行はしない。この原因としては、「こころ」に問題がある場合と、退却神経症という精神病の場合とがある。精神病は専門医に任せればよいが、著者が問題にしているのは、「こころ」の成長過程で自我が正常に形成されず、学ぶ目的も無く入学した学生である。そもそも学ぶ意欲が無いのだから、学業以外のことに没頭するのは当然か。

 最後の第3章「学業への回帰と退却の克服」で著者は救いの手をさし伸べる。学生一人一人に注目し、欠席が続く学生は呼び出して理由を問いただす。過剰なアルバイトやサークル活動が原因であれば、それらを止めて授業に出るよう説得する。そうすると約束しても実行しているか監視する。このような「介入」は教員にとっても大変な負担であるが、これなくしては学生の立直りは有り得ない。学業回避は依存症と似ている。患者だけの力では「止めたくても止められない」のだ。教員が積極的に介入し、「規則正しい生活」の価値に目覚めさせる必要がある。立ち直りの道を歩み始めると、学生のものの見方が変わる。以前は昼まで起きられなかった学生が、一時限目の授業から出席するようになる。

 留年を繰り返す子弟の父兄には、本書を読むよう強くお勧めする。問題の本質を理解すれば、子供を正しい成長過程に乗せることができよう。逆に問題を放置すれば後日引きこもりなど、さらに深刻な問題となるのは必定である。

 本書を読み終わり、「今どきの大学の先生は大変だなー」と嘆息した。本来大学教員は自分の専門知識を教えればよいので、落ちこぼれ学生の救済など業務範囲を超えている筈である。損を承知で面倒な仕事を引き受ける著者のような教員は数少ないであろう。たまたまこのような師に出会った学生は本当に幸運と思う。
                                             (狸吉 2018年7月17日)
ウニはすごい バッタもすごい デザインの生物学/本川達雄(中公新書 2017年2月25日初版発行本体840円)

 1948年仙台に生まれる。71年東京大学理学部生物学科(動物学)卒業。東京大学助手、琉球大学助教授琉球大学教授(86年~88年までデューク大学客員助教授)、東京工業大学大学院生命理工学研究科教授を歴任。
東京工業大学名誉教授、理学博士。専攻:動物生理学。
著書「ゾウの時間 ネズミの時間」「歌う生物学 必修編」「ナマコガイドブック」「サンゴとサンゴ礁の話」「世界平和はナマコとともに」「生物学的文明論」「長生きが地球を滅ぼす」「おまけの人生」「生物多様性」「人間にとって寿命とは何か」ほか

はじめに  希望的観測
第1章 サンゴ礁と共生の世界――刺胞動物門
第2章 昆虫大成功の秘密――節足動物門
第3章 貝はなぜラセンなのか――軟体動物門
第4章 ヒトデはなぜ星形か棘皮――動物門Ⅰ
第5章 ナマコ天国――棘皮動物門Ⅱ
第6章 ホヤと群体生活――脊索動物門
第7章 四肢動物と陸上の生活――脊椎動物亜門
おわりに

 書店で漁っていたら、帯が目についた。「ネット検索では得られない読書体験の面白さを教えてくれる本。大推薦いたします」福岡伸一(生物学者)。笑っちゃったが、これ今の世にすごく大切なことと思った。ググれば答えの出る世の中。多くの若者はNETに依存している。自分で考えたりしてるのか。していない、電車の中ではゲームだ。ノホホンの会の存在意義はこうした社会的な潮流に掉さしながら、思考の世界を広げるにあると思う私には、何故か頼りになりそうで、即座に買った。

 とにかく面白い、というのがこの本の印象。素人に動物学(のうちの目次に示されたジャンル)を飽きることなく惹きつけてくれる。動物学の教養書としては必読の1冊。
 まさにこの本の内容はNET検索では得られない、動物学入門書。分かっているようでわかっていない動物の秘密(不思議)が分かりやすく解説されている。

 楽しむあまり、タイトルの内容(なぜすごいのか)は危うく素通りしそうになったので、この2つについての要約はウニ

 化石では証明できないが、見てきたような話と断っているが、ウミユリ→ヒトデ→ナマコと進化を想定する。
 ヒトデの中に水を注入して風船のようにふくらませる。口面側が伸びやすく反口面側は伸びにくいとする。身体は膨れ上がって丸くなり、口面が伸びてカラダの側面と上面の大半を覆う、反口面は肛門だけになる。こうなったのがウニ。管足は口面にあり、広がるとともに体のほぼ全面に管足が分布することになった。管足を伸ばして歩くがここで呼吸もする。攻撃を受けやすいので長い棘を持つように進化。これは隠れるには適さない体形だ。なので、大きな殻に棘を生やして守りを堅固にする。棘は守るとともに体を更に大きく見せる。大きな体で堂々と海底に身をさらし、逃げ隠れしない強気の姿勢を取ったのがウニだと言っていい。

バッタ
 バッタもノミも飛び跳ねる。多くのノミは体長の数十倍跳ね上がる。ケオプスネズミノミ(体長2.5㎜)の場合は50㎝もはねてこれは体長の200倍。体長あたりにすればチャンピオンだ。バッタは高く跳んだ場合そのまま飛んで行ってしまうので比較にならないが、体長5㎝のサバクトビバッタは高さ25㎝、距離1mだから、体長の5倍まで跳ね上がり、20倍前方に着地する。

 人は(競技選手でも)立ち幅跳びで体長の2倍。立ち高跳びはせいぜい体長かその1.5倍。昆虫に全く及ばない。

 昆虫は人(筋力で飛ぶ)のやり方のほかにばねの力を利用している。ゴムのパチンコと思えばよい。ゆっくりと引っ張れば大きな力を蓄えられる。昆虫はこのバネとして主に脚の関節部のクチクラを使う。ノミの場合はレジリンというゴムのような弾性を示すたんぱく質が主役となる。クチクラとは別章でくわしく解説されているが、昆虫の皮膚(キューティクル)、体の表面を覆う薄くて硬い膜状の皮膚で無脊椎動物の体を保護し、保湿の機能を持つ。

(恵比寿っさん 2018年7月21日)

激動の日本近現代史/宮崎正弘×渡辺惣樹(ビジネス社 本体1,800円)

 内容は対談形式。宮崎氏は中国ウォッチャーとして知られる評論家。渡辺氏は真実を見ようとする「歴史修正主義」を掲げる日本近現代史研究家。

 アメリカは日本をよく研究していた。ペリーは、日本に向かう船中でチャールズ・マックファーレンの著「日本1852」(渡辺訳、草思社)を読み込んでいたという。これには家康時代の三浦按針ことウイリアム・アダムスの手紙も収録されており、日本は素晴らしい国であるとして、詳細な地理と共に、礼儀、仁義、勇敢、礼節など日本人の特性を上げ、神を敬う反面、多様な考えを持つことに寛容であり、また、権力の将軍と、武力を有しないミカドの並列も指摘しているという。

 日本の開国は、ペリーによる日米和親条約からハリスの日米修好通商条約と進むが、ペリー提督の海軍力を背景にした開国交渉に比べ、初代領事ハリスは軍事力という後ろ盾を与えられず、口八丁手八丁の交渉スタイルだった。これが日本でハリスの評判が悪い理由だと本書はいう。

 しかし、そのハリスがなしとげた1858年の日米修好通商条約は、日本とヨーロッパの国との間に問題が起きたらアメリカが仲立ちとなると明記し、特にイギリスの植民地政策やアヘン商売を禁止する条項や、日本に有利な高関税20%の取り決めなど、日本への善意の取り決めが盛り込まれていた。

 イギリスは、産業革命による工業力を背景とした「自由貿易帝国主義」で世界を制覇しつつあった。それに対してアメリカはまだイギリスに材料を供給する後進国、農業国であったので、イギリスの支配体制に対抗して工業立国を目指す「保護貿易主義」を掲げていた。

 日本は、ハリスとの日米修好通商条約に続いてオランダ、イギリス、フランス、ロシアと条約を結ぶ(安政5カ国条約)。これに猛反対したのが西洋人嫌いの孝明天皇で、五カ国条約を五蛮条約と呼んだ。攘夷を叫ぶ孝明天皇と開国を迫る外国の間で幕府は四苦八苦した。

 そこに付け込んだのがイギリスのキャリア外交官ラザフォード・オールコックだった。幕府は、開港の中止ないし延期を願ったが、オールコックは、自らの権限で裁断できる案件にもかかわらず、フランス公使のべルクールと相談し、幕府に使節団を出させて本国の政府と交渉するように仕向ける。

 そこで1862年の文久遣欧使節団の派遣となる。総勢38名の中に下級役人だった福沢諭吉もいた。この結果、自由貿易帝国主義の二大国家英国・スランスと覚書を交わし、兵庫、新潟、江戸、大阪の開港・開市を5年延期することができた。しかしオールコックは、開港延期の代償として日本の関税率を5%に引き下げさせ、ハリスの作った20%の関税障壁を崩すことに成功した。

 米国では、リンカーンが1860年に大統領になった直後から南部諸州の連邦離脱の動きが本格化した。1861年、南北戦争勃発。その時点ではまだ、リンカーンは南部諸州の奴隷解放を主張していなかった。奴隷解放宣言は1862年。言い出したのは、英仏両国の奴隷制度を批判する世論を刺激して英仏の武力介入を阻止することにあった。それではなぜ南部諸州は独立しようとしたのか。それはリンカーン政権になれば高関税政策の保護貿易主義にシフトし、イギリスとよろしくやっていた南部諸州の綿花オーナーが、イギリスの報復を恐れたからである。南北戦争の本質も、通説である奴隷解放ではなく、実態は関税政策を巡る米英の争いだった。

 日朝関係では、日露戦争後に朝鮮から外交権を取り上げてから1910年の日韓併合まで、すべて日本による侵略だったという自虐視点で日本の歴史書が書かれていると本書はいう。しかし、日朝修好条約(1874年)の第1条で朝鮮の独立を規定し、朝鮮の宗主国を自認する清との講和条約である1895年の下関条約の第1条も、朝鮮の独立を規定している。これが朝鮮の独立と近代化を願った2つの国、日本とアメリカの共同作業による真の「朝鮮開国」だったといい、この輝かしい歴史が、戦後の「自虐史観」によって忘れ去られているという。目からウロコの一書である。

(山勘 2018年7月23日)

 エッセイ 
きかた

 もう半世紀近く前、私はある小さな工学専門出版社に入社した。木造の古びた社屋で社員数は20人程度だったが、営業も経理も広告もあった。旧帝大で機械工学を学び、戦時中は歯車の研究をしていたという創業社長は、知人に高名な学者や技術者が多く、取材先は豪華だった。社員の半数を占める編集は全員工学部出身で、小規模ながら質の高い専門誌や専門書を出版することで知られ、まさに?山椒は小粒でピリリと辛い”という形容がピッタリの特異な出版社だった。

 さらにユニークだったのが、当時から完全週休二日制でタイムカードが一切なかったこと。社員は好きな時間に出社すればよく、さすがに営業や経理は午前10時頃には来ていたが、雑誌や書籍の編集部はどうしても時間が不規則になる。前夜深酒した編集部員(かくいう私もだが)は早くて昼頃、原稿をレイアウトする制作部員に至っては午後の出社が当たり前だった。だから、社員のほとんどは通勤ラッシュと無縁だったが、世の中にあれほどエネルギーを無駄に使うものもないだろう。

 そんなわけで、基本的にはすべてが自分のペースで仕事ができた。原稿を書くためだけに出社する必要はなく、自宅でやるといえばそれでよかった。私などそれを口実によく二日酔いの頭を冷まし、いわばテレワーク(在宅勤務)の先駆けになったこのシステムを大いに活用したものである。

 クーラーなどなかった時代、暑い夏は昼間から冷たいビールを飲みながら原稿を書いたし、取材の帰りに先輩に連れられて、昼間からやっている酒場に立ち寄ったこともある。アルコールが入ったほうが筆も走ると嘯いた豪快な先輩がいたが、当時自分が書いた文章を読み返してみても、確かに表現に味があった気がする。

 残業手当はなかったが福利厚生はちゃんとしていて、社会保険はもちろん、家族手当、休日出勤手当、積立はしたが家族も参加できる社員旅行、忘年会や新年会はほとんど会社持ちで、とくに数日にわたる旅行は、混雑する休日を避けて会社を臨時休業にするほどの徹底ぶりだった。

 このように何事も合理的、効率的だったが、一方で立派に労働組合があり、ストライキもした。それでも会社は潰れずに雑誌も書籍もちゃんと出た。有給休暇もあったが、それを消化した社員は知らない。不景気になれば給料カットは社長、重役からだったし、今考えても実に民主的でモラルの高い会社だった。

 ある朝、といっても午前10時頃、まだ家にいた私に著者から電話がかかってきた。「会社に電話したら誰も出ない。お宅は一体何時から始まるのか」。さすがにこれではいけないと思い、社内会議で自分のことは棚に上げて、営業や経理はせめて午前9時半には出社しようと提案した。ちょうど子供が幼稚園に通い出した時期で、朝9時に娘を幼稚園に送ったその足で会社に行った。”隗より始めよ”ではないが、結果的に私が一番早く出社することになったが、部屋の掃除や湯沸かし、電話番をしてみて初めて、早く出社する人たちの苦労がわかったものだ。

 雑誌の編集は締切りがあるので徹夜もしたし、新年特大号で忙しくなる年末ともなれば、寝不足の日が1週間も続くことがあったが、辛いと思ったことは一度もなかった。ある日の夕方、急に重要な取材が入ったが、あいにくその日は友人とコンサートに行くことになっていて、しかも2人分のチケットまで持っている。仕方がないので正直に理由を話し、無理に先輩に代わってもらったが、理解ある会社でそれが出世に響くことはなかった。しかし、真のプロの編集者だったらどうしただろうかと今でも自問する。
「働き方改革関連法案」なるものが国会を通った。難しいことはよくわからないが、私が勤めていた会社など真っ先に法令違反を指摘されるブラック企業だろうし、現在もそんな会社はあるかもしれない。しかし、就業時間も賃金規定もいい加減な会社でも、教育が良かったのか仕事に対する社員の意識は高く、情熱も半端ではなかったから、どこに出しても恥ずかしくない立派な本がつくれた。

 「遅れず休まず働かず」という言葉があるが、どんなに時間通りに出勤してもルール通りに仕事をしても、ものづくりもサービスもその品質が悪ければ何の意味もない。働く人々の意識や意欲が高くなければ、決して良い商品もサービスも生まれず、技能や経験も育たない。

 50年も前にフレックスタイムもテレワークも実現していた先進的な会社で思う存分仕事ができたことは、本当に幸せだった。メイド・イン・ジャパンを支えてきた日本企業の不正表示や品質問題などが続く昨今、働くことの本当の意味を教え、働きかたの心を改革することのほうがずっと大事なのではないか。

(本屋学問 2018年7月7日)


 「半端ない」 ? 日本語軽視

 熱狂のワールドサッカーで、主力選手の1人を応援する表現から「半端ない」という言葉が流行った。若者が言う分には愛嬌もあるが、マスコミや“大のオトナ”がそんな軽佻浮薄な言葉を平気で使うのは気色がわるい。「半端ない」日本語軽視の風潮に抵抗を感じる“大のオトナ”が少なくなってきているようだ。

 たまたま私は、このところ2本続けて言葉に関連する雑文エッセイを書いた。1本は、『「丁寧に説明してご理解を得る」のはムリ 』 というもので、安倍総理のように、魂のこもらない言葉で丁寧に説明しても理解を得るのは難しい、というもの。もう1本は、『笑われた「忖度」と日本語』 で、日本人として大切な、他を思いやる精神である「忖度」が笑いものにされることに疑問を呈したものである。

 そんなことを思っていた矢先に、“言葉のプロ”による同様の“感慨”を新聞で目にした。読んだ人も多いだろうが、少し引用する。まずは、偶然にも同月同日(6・24)に、朝日新聞と読売新聞の、それも両紙の川柳選者が、近ごろの言葉の軽さ、言葉を軽視する風潮について嘆いて?いるのである。
 読売新聞では、「よみうり時事川柳」選者の長井好弘さんが、『その作品「投稿多数」かも』という見出しで書いている。そして最近の見出しの例として、『「ゼロからのスタート」多数』を上げる。これはNHKアナウンサーの有働由美子さんがフリーになり、今秋、日本テレビ系「NEWS ZERO」のメインキャスターになるという話題がネタである。長井さんは、「ゼロからのスタート」という言葉を安易に使った投句の多さに驚き、投稿前の一ひねりのなさを嘆く。その理由として長井さんは、インターネットでの投稿が圧倒的に多くなったことを挙げる。思いついたらすぐネットに書き込む。思い付きのアイディアを推敲することなく送信してしまうと言い、『これで「秀逸」を取れるなら、こんな楽なことはない』と、言葉の扱いの軽さを嘆く。

 朝日新聞では、「朝日川柳」の選者西木空人さんが、「川柳という文藝の本領は、熟達のウィットと悠然たるユーモア、意表をつく風刺にあります」としたうえで、この半年間は、『「膿」なんて禍々しい言葉』や『「ウソ」とか「ウソつき」といった忌むべき言葉』が「ど真ん中への直球」で出てくると嘆いている。そして官僚の真相隠し、言葉遊び、言葉を弄ぶ安倍政権を嘆く。こうした世相を20句ほどの秀句を引きながら回顧して、最後に、「政治が乱れれば、言葉が乱れる。無体に扱われている日本語がかわいそうです」と言い、「風に舞う木の葉のような言の葉よ」「以前なら幾つ政権倒れしや」と結ぶ。

 まさに「我が意を得たり」の思いがする。表現の自由で何を言っても構わないのではあるが、テレビで、街頭インタビューの中継などを見ていると、みなさん、たとえば政治問題でも経済問題でも実に気軽に自分の意見を言っている。私など、いきなりマイクを向けられたら「一晩考えさせてください」とでも言いたいような質問に、みなさん実にスラスラと即答している。しかし、中には考え込んでしまう人や、言い淀む人や、逃げ出す人がぜったいいるはずだ?! いったい何人の通行人に聞いて何人が気軽に即答したのだろう。ぜひそれを聞きたい、と、いつも思うのである。

 いまや、言論の府である国会において政治家が日本語をダメにし、国のリーダー層や一般国民まで言葉を軽んじるようになっている。その風潮に拍車をかけるのが、インターネットの普及、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及である。先にも書いたが、ネット社会では言葉の意味を吟味せず、気軽な言葉が氾濫し、言葉の変化球が乱れ飛び、勝手な言い分が氾濫している。そういう今だからこそ、“半端じゃない”日本語軽視の風潮を真剣に反省すべき時ではないだろうか。

(山勘 2018年7月23日)

 マンデラ政治は過去の幻影か

 曽野綾子さんの、3年ほど前の“失言”を蒸し返して申し訳ないのだが、曽野さんは、当時、産経新聞で、移民労働力の必要性を言う一方、労働移民の居住施設は白人、黒人、アジア人と人種によって分けた方がいいと言ったということで、この主張がアパルトヘイトだとして批判された。これに対して曽野さんは、私はアパルトヘイト政策を提唱してなどいない、生活習慣の違う人間が一緒にすむことは難しいと言っただけだと弁明した。

 今年は、反アパルトヘイトの元祖、元南アフリカ大統領のネルソン・マンデラの生誕100周年だということで、いろいろ報じられている。彼が生涯をかけて戦ったアパルトヘイトは、黒人・白人・その他の人種を隔離・分離して混血することを避けようという人種隔離政策である

 マンデラを主人公にした映画に、「インビクタス/負けざる者たち」がある。これは、反アパルトヘイト運動で国家反逆罪による終身刑となったマンデラが、27年の獄中生活を経て釈放され、推されて同国初の黒人大統領となる。そして、ラグビーの南アフリカチーム、メンバーにひとりだけ黒人選手が入っているチームを、白人・黒人の融和のシンボルとして支援し、ワールドカップに出場させ、快進撃の末に奇跡的な優勝を果たすというドキュメンタリータッチの映画である。

 記憶にある感動的なシーンは、大統領就任直後?の大統領執務室?に、前大統領の身辺警護に当たっていた白人を呼んで、(正確なセリフは覚えていないが)これからも変わらず私の警護を頼むと言うシーンである。相手は、当たり前ならマンデラに危険を及ぼしかねないと考えてもおかしくない前白人大統領つきの護衛官である。こうして、当然クビになると思っていた身辺警護チームも、そして、慰留された白人官僚たちもマンデラに心酔していくのである。

 南アフリカ共和国のアパルトヘイト・人種隔離政策が法律化されたのは1948年。世界の非難を浴び続けて一連の人種隔離政策を撤廃したのは1991年。そして今日に至るのだが、現在の南アフリカも、一部の黒人成功者を除いて、いまだに大多数の黒人は差別と貧困にあえいでいるという。

 人種差別・黒人差別の源流をたどれば、米国の初代大統領リンカーンが黒人奴隷解放を掲げて戦った1861~65年の南北戦争がある。しかしこの、教科書にも載るほどの世界の常識に異を唱える学者があらわれた。自らを「歴史修正主義者」と名乗る近現代史研究家 渡辺惣樹氏である。

 渡辺氏はその著書(宮崎正弘×渡辺惣樹「激動の日本近現代史」)で、リンカーンは1860年の大統領選でも、1861年の南北戦争開戦時も、奴隷解放の旗を掲げていなかったと指摘する。リンカーンによる奴隷解放宣言は1862年で、言い出したのは、英仏両国の奴隷制度を批判する国際世論を刺激して、奴隷制度に頼る南軍への英仏による武力支援を阻止することにあったと論証する。

 そして渡辺氏は、リンカーンが真剣に奴隷解放を願っていたとしたら、70万人(現在の米国人口比なら700万人)の戦死者を出して勝利した南北戦争の後は、奴隷も黒人差別も無くなる方向へ進んだはずだと言う。リンカーンの奴隷解放宣言が南北戦争に勝利するための対英仏戦略だったとすれば、リンカーンの歴史的値打ちは大分下がることになる。

 今、世界を揺るがしている大国数カ国のトップは、いずれも危険な独裁者である。民主主義のリーダーたる米国のトランプ大統領が、大国の独裁者と波長が合うというのは、反グローバリズムという極めて危険な時代に向かう兆候ではないか。私心を持たず、清貧に生きて、すべてに包容力があり、しかも信念を持って屈しなかったマンデラの政治は過去の幻影なのか。

(山勘 2018年7月23日)
ホツマエッセイ イセの道とスズカの道とオホナムチが出雲を去った経緯

 仙台の多賀の国府で「オシホミミ」(天照神の日嗣皇子・後の箱根神)は「タクハタチチ姫」(スズカ姫)と結ばれました。

 この婚礼で、「オシホミミ」は、伊勢に居られる天照神の「みことのり」を伝える三種の神器・「やさかにの勾玉」(八坂瓊曲玉)・「やたのかがみ」(八咫鏡)・「やえがき」(八重垣剣)を、勅使の「ワカヒコ」(カスガマロ・アメノコヤネ)から賜われました。

 「やさかにの勾玉」(八坂瓊曲玉)は、「くしひる」(竒し霊、霊妙)として用いれば、「なかご」(自分の基準軸、信念)を正しく保てます。考えが揺らぐことはありません。
「やたのかがみ」(八咫鏡)は「たて」(左大臣)に、「やえがき」(八重垣剣)は、「つ」(右大臣)に預けなさい。三種の神器を「われ」(天照神)と思って政り事を行ない天下を治めなさい。
そして、貴方が娶った「たくはちち姫」と相共に、常に睦まじく、威厳をもって威光を放ちなさい。

 ホツマツタヱの13綾では、婚礼後の暑いある日、お酒を賜わる暑気払いの席が設けられ、「ワカヒコ」が「イセの道」と「スズカの道」について説く場面が登場します。

その席に、
「ヒタカミ・ウオキミ」(日高見大君、タカギ・タカミムスビ7代目)
「カルキミ」の翁(出雲に居られた「オホナムチ」)ソサノオとイナダ姫の子供、クシキネ、大国魂主、大黒様とも呼ばれる。180人と共に津軽へ渡り、後に「ツカル・ウモトの神」・東日隅大元神・「ヒスミ君」と呼ばれる。
「カトリカンキミ」(フツヌシ)香取神君、「カシマキミ」鹿島君、「ツクバ」筑波神、
「シホカマ」塩竈神、が列席していました。

1 「イセ」の道とは

 「イセの道」について、若君「オシホミミ」は父天照神が「イセの道」を説いたが、もう少し詳しく説明してほしいと問われ「ワカヒコ」が説明するところから始まります。

「イセ」とは「いもせ」・「いもおせ」とも言います。
「イセ」(男女の仲)「いもせ・妹背」・「いもおせ」の道とは、男女の仲の在り方を解いています。今でいう夫婦道になります。
神の教える「イセ」のみちとは、天の浮橋を渡り(仲人を通じて)結ばれることにより、男女の仲の道(夫婦道)の前途が開けます。

 男(ヨオ)は太陽に例えています。嫁(ヨメ)は月に例えています。
 月は自ら光を放ちませんが、太陽の光(ひかげ)を受けて、月は輝きます。夫婦の関係も同じで、夫の力次第で、妻は一層光り輝きます。
 男は外で働き務めます。女は家の中の家事一切を治めます。糸を紡ぎ、機織りし、絹を綴り、衣服を作ります。

 家督・家を継ぐ(「イセ」を治める)のは、本来は兄ですが、病気や親の意向に沿わないときは弟に継がせて吾子(あこ・嫡子)とします。世継ぎの者は、家督を譲り受け、仲人を立てて結婚し、睦まじく暮らし、子供を生み育て、子々孫々家督を譲って行きます。

1-1「女性(妻)の心がけ・立場について」

メ(女・妻)はヨ(世・外の世・男の世界)に住める場所はありません。
妻は美しく優雅で華やかにいなさい。夫の優しい妙の言葉に愛を信じなさい。
生涯の連れ合いになった夫に操を立てなさい。
嫁は夫の「オナカ」(腹心)にいつも居るように心がけていれば、それが操・貞節です。

 女性は他家に嫁げば今までの自分の名前(姓)がなくなります。夫の家の姓を名乗り、誰れそれの家内と言います。嫁いだ男一人が自分の太陽であり、他の男に目をくれてはいけません。 

 夫の両親は生みの親と思って尊敬しなさい。 
毎日朝夕には美味しいもの(ムベの果実:不老長寿の伝説の果物)を差し上げなさい。
 老いたる者には良く仕え、年長者の言うことを聞きなさい。

1-2「妾について」 ここの内容は、紀元前660年以上昔の縄文晩期の日本のことです。

 妻が子供(世継ぎ)を生まないときに、家名を継ぐために許されるなら、子孫が絶えないように夫は外の女性を娶り妾としなさい。

1-3「夫のとる心がけについて」

本心から夫は自分に隠し妻(妾)がいるなどと、妻が腹立たしたくなるような意地悪い言葉を言ってはなりません。
妻の腹(心)が病まないように(夫婦喧嘩にならないように・離婚にならないように)お互いに納得するまで優しく諭しなさい。

具体例が出てきます。「オキツヒコ」が浮気し、妻が荒れ、離婚したが、マフツの鏡に映された姿は煮捨て窯の様相であり、その後、父から諭され、自分を磨き(心を入れ替え)全国を行脚する。天照神から竈神(かまどかみ)の名を賜わる。仏教の荒神様にも関連しており神仏習合の一つの例と思う。

 月は夜輝きます。妾を愛すると言えども、夜、妻との営みを疎んではなりません。
又、家の事に口出しする妾の言葉を聞き入れてはなりません。 妾の役割は子を生むことです。

例え、妾がどんなに美しくとも、宮内(家)の中に入れてはなりません。

 天の原(天空)に月が二つ並ぶことはありえないことです。国が乱れます。それと同じように、妻と妾を同じ一つ屋根の下(一軒の家)に住んではなりません。いさかいが絶えず、家の中が乱れます。

1-4「妾の務めについて」

 妾となる人の大切な務めは常に妻(本妻)を尊び礼を尽くして敬うことです。
妾となる人は、夜空に輝く星に見立てることが出来ます。星は美しく光っていますが、月の明かるさには到底及びません。妻は月になぞられるからです。

1-5「子供を授かる方法について」

「シオカマウシ」(塩竈)は私には子供がいないと願い出ました。
「カスガ」は、大嘗祭の「アユキ」(天の祭場)、「ワスキ」(地の祭場)の祀り主に頼んで、自分の魂返しの神祀りをします。そうすれば、苦しんでいる魂の緒も解けて、魂(たま、霊)は「ムネカミ」(宗神宮)に帰り、魄(しい、肉体)は「ミナモト」(源宮)へとそれぞれ帰り着き、魂と魄が天上の「サゴクシロ宮」に戻って神となります。しかし、この幸運は大嘗祭に於ける「たまゆら」でめったにないことです。

子孫を授かりたいと願うなら、夫婦ともに睦まじく、仕事に精を出して業を務めることが、真の「イセ」の道(夫婦道)でしょう。
 「イセ」の道を説いた天照神が居られる伊勢の国が、この道を学ぶところです。

2 「スズカ」の道について

 人間は天から命を授かり、この世で最善を尽くして生き、そして再び、天に帰ります。
人の心も、戒めの心をもって、欲望(我欲)を捨て去り、清く正しく美しく生きることを「スズカ」(鈴明、鈴鹿)と言います。

 子孫の繁栄を思えば、夫婦に驕る心の戒めが必要で、戒めの心がないと魂の緒が乱れ、生活は乱れ憂き目を見ることになります。
 人の心も、戒めの心をもって、欲望(我欲)を捨て去り、清く正しく美しく生きることを「スズカ」(鈴明、鈴鹿)と言います

人の心を与えられた者は、寿命を迎えて再び天上に帰るとき、素直に生を全うすれば再び次の世でも良い生を与えられます。他人の幸い(財宝)を見て自分は迷います。羨みを、嫉みを持つかも知れません。人間は生きている間は幸せであっても、あの世に行ってから、神から死の苦しみを受けます。

 我々は天から命を授かり、この世で最善を尽くして生き、そして再び、天に帰るのです。
無心(無我の境地)でホシ(欲・欲求)を貪ぼる心は全く無く、「ユキキの道」(行き帰りの道・天と地の往来の道、天御柱の道)も覚え知ることが出来ました。
天上のモトアケ(天地創造の元神)の守護により、「メ・オ」(男女)が結ばれて、新しい命を授かり、
人の心を与えられた者は、寿命を迎えて再び天上に帰るとき、素直に生を全うすれば再び次の世でも良い生を与えられます。

しかし、邪欲を持つ者は再びこの世には帰れません。仮に貪欲な人間が、運よく(あやかりて)人に再び生まれたとしても、魂の緒が乱れ苦しんで人の道を忘れ去っていますので、神罰を受けます。
人間として満ち足りず心が安らぎません。みじめな生き地獄が待っています。他人から見ると、光り輝いている物を欲しがる人、羨む人が常に現れる(かむ・噛みつく)ので、霊の緒(たまのを)が乱れてしまいます。
神が直接手を下して討ち殺すわけではありません。死の苦しみの縁に突き落とされる夢も、死後に受ける苦しみと同じことです。
人の嫉みが「魂の緒」に覚え刻まれてしまい、己(おのれ)の良心が責められることになるのです。 それが、長い悪夢となって現われるのです。

 神祭りを怠れる者は、願いが天に届かず、天祖神(アメミオヤ神)の恵みから漏れて人間の世界から漏れ落ちてしまうことになります。人は常に天の正しい道を敬い、天神を祀りなさい。
 各々、カバネ(姓)の先祖の霊を祀る宮にカンクラ(神楽)を申せば(奉納すれば)、魂の緒も解けて人の霊に帰ることが出来ます。

 心に渦巻いている欲望(ホシ)から逃れることとは、財を「捨てず、集めず」の術を知りなさい。物を無駄にせず、集め過ぎず、ほどほどの術を身につけなさい。

財宝を倉一杯に満たしても、ただ置いておくだけでは人の役に立たず、塵(ちり)や芥(アクタ・ごみ、滓、屑)も同然です。
 財宝を塵のように集めて偉そうに世にのさばると、その財を羨むものが現れます。この財産を嫉み羨む者が鬼となって財産家を噛む(牙をむく・噛み殺す)ので、この苦しみから魂の緒が乱れ、死んでも、帰る宮(処)が無く子孫も絶えてしまいます。

 先日、仏教の教えにも「邪心(邪気)をとれば無心になり、無心になれば元気(元の気に戻る)になる。欲得にとらわれずあるがままに過ごせばよい」と同じ意味があることを知りました。

「オホナムチ」が、出雲を去ることになった経緯と「スズカ」の関連について

 出雲を去ることに決めたとき、本心からは納得できなかったが、息子に従ったことが分かります。
 カルキミ公(オオホナムチ)が、何で、私の財宝が皆から咎められなければならないのですか。人は皆、私の財宝を褒め称えています。と「カスガ」に申し立てました。

 「カスガ」は、他人の幸いは我が迷い。他人の幸い(財宝)を見て自分は迷います。羨み、嫉みを持つかも知れません。人間は生きている間は幸せであっても、あの世に行ってから、神から死の苦しみを受けます。 民の規範となるべき上の位のものが、財に物を言わせて、欲望や快楽に走れば、下の位の者はなおさら満たされぬ欲望が強く渦巻きます。

 この「カスガ」の話を聞いたとき、「オホナムチ」は、息子の「クシヒコ」(コトシロヌシ・えびすさん)が、私を諌めて(誤りを忠告する)言った「スズカ」の教えの真の意味が今やっと解けました。と納得されました。

 当時、出雲は他の国々より際立って繁栄していたことが、残されている遺跡からも読み取れます。

 古代出雲本殿跡で発掘された非常に大きい建物の基本部分は高さが48mあったと推測されており、本殿には階段を昇りつめて行くような想像図を見たことがあります。北極星(北緯37°)の向こうに神が居られると見ていたと推定されます。

 銅鐸や銅剣が大量に発見されていることからも、当時の最先端を行っていたことも窺えます。
(加茂倉遺跡から発見された39体の銅鐸については、ホツマツタヱから「オホナムチ」が出雲を去って後は39の銅鐸(ミカラヌシ)を谷に埋めて神祭をしなくなった。という記述とも一致します)

 オホナムチが出雲を去った経緯をホツマツタヱ10綾より抜粋

①葦原中国では、二十五すず歴九十三枝年「さあゑ」の夏、橘の木の枝が枯れたため、「ふとまに」で占なったところ「はやもり」(羽矢が漏れる・謀反がある)という卦が出て、北西の方角(出雲)に原因ありと出る。

②「よこべ」(検察官)を派遣し、出雲の国は満ち満ちて道理が隠れてしまっているという報告を受ける。

③出雲宮は玉垣内宮(たまがきうちみや)で、天照神の皇室に匹敵する豪華な造りの大宮殿(九重の大宮)を築いているという報告を受ける。

④「よこべ」(検察官)の報告を受けて、「七代目タカミムスビ」は、「かみはかり」(神議)を新しくなった今宮で行う。出雲を糺(ただ)すために「ほひのみこと」(「天照神」の長男、すけ妃「もちこ」との間の子供)を派遣することに決める。

⑤「ほひのみこと」は出雲の国神にへつらい媚びて(機嫌を取ることに終始)しまい、三年経っても帰ることはなかった。母親の実家にも近く、羽を伸ばしてしまったものと思われる。

⑥次に、「おおせいい・みくまの」(ほひのみことの子供)を派遣したが、父の言いなりで、帰って来ず。

⑦再び、「かみはかり」(神議)を行い「あまくに」の「アメワカヒコ」以外にないと決める。そして、「たかみむすび」が「かごゆみ」と「羽羽矢・ははや」を賜い、出雲へと向けさせる。
しかし、今度こそと思った「アメワカヒコ」も、任務に忠実でなく、こともあろうに、出雲を治めていた「オホナムチ」の娘「タカテル姫」を娶ってしまう。
挙句の果てに、自分が派遣された葦原中国を乗っ取ろうと野心を持ち、八年経っても帰って来ず。

⑧隠密(きぎす、雉)を飛ばす決断を下す。
隠密は、「アメワカヒコ」の優雅な暮らしぶりに変わり果てた姿を見てしまい、つい、「ほろほろ」と鳴いてしまう。(声を立ててしまった)。物音に気付いた「さくめ」(探女)が不審者を告げ、「ワカヒコ」は、「羽羽矢」を射る。矢は雉(隠密)の胸を通り抜け、遥か遠くまで飛んで、葦原中国の「タカミムスビ」の前に落ちる。

⑨雉(隠密)が「けんけん」と鳴くことも無く(様子を聞くことも無しに)死んでいったことを、血で染まった羽羽矢を見て「タカミムスビ」は知る。そこで、「タカミムスビ」は咎めの返し矢を放つ。返し矢は「ワカヒコ」の胸に命中して、あえなく死んでしまう。

⑩「タカミムスビ」の決断で、驕る出雲の「オホナムチ」を征伐しに行く門出の「かしまたち」の宴がとり行われる。「タケミカヅチ」と「フツヌシ」の二神が出雲征伐へと向かう。

 ここでの「かしまたち」は、「か」=右大臣(出雲のオホナムチの役職、「しま」=国(なわばり)、「たつ」=絶つ・断つ)と捉えられる。後に「タケミカヅチ」は「カシマ」(鹿島・鹿嶋)」という名前を賜ったので、鹿嶋を立ったという意味合いに代わってしまったようである。

⑪「タケミカヅチ」と「フツヌシ」は、出雲杵築宮の前で、「みほこりて あさむくみちを ならさんと われらつかふぞ そのこゝろ まゝやいなやゝ」
 自らを誇って、国に欺く行為を思いとどまらせるために、出雲を糺すために、我ら二神は遣わされてやって来た。おぬしの心は従うのか従わないのか。

⑫出雲の「オホナムチ」は、何が何だか分からず、宮中から帰国し鯛釣りを楽しんでいた息子の「クシヒコ」(コトシロヌシ)に状況を確認する。

 息子「クシヒコ」(コトシロヌシ)は、「私の心は「すずか」で欲得もなく清いものです。此処に及んでは、もはや、「ち」(地)の鯛(まな板の上の鯉)も同然です。自分では成す術はありません。あがいてもどうしようもないことです。魚として切られ料理されるのは愚かなことです。」

 「高天(たかま、宮中)は、民が「えみす鯛」(民が鯛を釣り上げて喜べる姿)に存在します。」(国民が不満を持たず満足している姿であること)と「えみす顔」(えびす顔)で答えました。(ゑびす様の語源)
「ことしろぬし」(「オホナムチ」の息子、「クシヒコ」)は「我が父がこの出雲を去るのであれば、私も一緒に国を去ります。」と答えました。

 父「オホナムチ」は、二神(「タケミカヅチ」と「フツヌシ」)に、「我が子は出雲を去ってしまった。私も去ります。今、私が出雲を去るにあたり、誰かまた力ずくで叛(そむ)く者が出てこないとは限らない。降伏の証として、我が「くさなぎ」の矛(ほこ)を用いて国を生(な)らしてください」と言って矛を置いて去って行きました。

⑬「タケミカヅチ」と「フツヌシ」は「かしまたち」に成功し諸神共々引き連れて、「アメヤスカワの宮」(天の野洲川の宮・滋賀県)に帰り、「タカミムスビ」に戦勝報告をしました。

⑭出雲を降伏させた論功により、「フツヌシ」は「あわうわ」(天神地祇・てんじんちぎ)の導きを良く守り神威(しんい)を高揚してくれた。「フツヌシ」は既に香久山を司る「カトリ」神を賜っている。「タケミカヅチ」は、このとき「かしま」神の神部(かんべ、おしで)を賜いました。

⑮「タカミムスビ」は「オホナムチ」に、津軽の「アソベ」(阿曽部)の「アカル宮」(岩手山神社)を「あふゆ」(天の恵み、天恩)によって賜わる。この時に「カルキミ」翁と言われていたことが分かります。

⑯「オホナムチ」は津軽の「あかる宮」を建立し「ウモト宮」(天日隅・阿曽部岳の大元宮)の建立を進め、「ウツクシタマ」(顕国玉神)と称えられ、「オホナムチ」は「ツカル・ウモトの神」(東日隅第元神)となり、神上がりました。
                                       (ジョンレノ・ホツマ 2018年8月14日)
2018/8/13追記訂正