例会報告
第73回「ノホホンの会」報告

 20171225日(月)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:致智望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

 今回は年末でもあり投稿数も限られましたが、皆さんお忙しいなか出席くださいました。狸吉さんは回復途中で今回も残念ながら欠席でしたがリハビリ効果も良く、快方に向かっているとのことです。2月か3月の例会にはお顔を見せていただけることを希望しています。なお、ジョンレノ・ホツマさんの「ホツマツタエエッセイ」は、前回時間切れのため、再度1月例会で発表をお願いします。

 (今月の書感)

グローバリズムの終焉」(致智望)/心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで(恵比寿っさん)/吉田茂-尊皇の政治家-(山勘)/リメンバー「真珠湾」を演出した男」(本屋学問)

 (今月のネットエッセイ)

重力波測定の難しさ(恵比寿っさん)/『勝負』と『品格』の勝負(山勘)/筋金入り 日本の『謝り文化』(山勘)/ホツマツタヱ・エッセイ・斎宮(いつきの宮)とその誕生の背景など(ジョンレノ・ホツマ)

 (事務局)

 書 感

グローバリズムの終焉/馬淵睦夫(KK ベストセラーズ 本体1,200円) 

本書の著者である馬淵睦夫は、ウクライナ兼モルドバ大使を務め、防衛大学校教授を務めた後、現職の吉備国際大学客員教授を務めている。氏は、京都大学在学中に外務公務員採用上級試験に合格し1968年外務省入省、2008年定年退職し2014から現職に就く、著書として国際問題を題材した書籍を数書上梓している。

米国のトランプ大統領の誕生と英国のEUの脱退を決めたことは、「グローバリズム」と「ナショナリズム」の戦いであり、アメリカとイギリスにおける「ナショナリズム」の勝利と言う世界史的な意義を持つ事件であったと著者は言う。

第二次大戦後、政治家、官僚、知識人やジャーナリストたちは、世界の動きから一周も二周も遅れており、「ポリティカル・コレクトネス」と言う欺瞞にとりつかれ、今日に至る70年間その呪縛に取りつかれつつ今に至っていると言う。ここで云うポリティカルとは、「政治的に」と言うことであるが、「ポリティカル」を除いて「コレクトネス」と単純に言えばよいことで、敢えて政治的に正しいと言うところに、欺瞞の原点があり、日本でも「ポリティカル・コレクトネス」と言うと、人権尊重、人道主義、弱者の味方とか言われるが、実態はきれいごとに過ぎないと言うのが本書の基本論調となっている。

今回の大統領選は、「グローバリズム」対「ナショナリズム」の戦いで、グローバリズムの「国際主義者」いや「国際干渉主義者」と言う米国流の言葉に置き換えた戦いであり、米国民はこれにNOを突きつけたのがトランプの大統領就任の勝利であり、その結果によるトランプ大統領の誕生で米国とロシアとの関係は良い方向に転じると言う。

ヒラリーに代表される国際主義者が、プーチン大統領を何とかグローバル市場に組み込もうとしてウクライナ危機を起こし、それ以後ずつと、プーチン包囲網を組み立てて来た。トランプが大統領になったことで、その思惑は崩れる事になると言う。

20世紀の世界的な紛争は、「国際主義者」が起こしたもので、「国際干渉主義者」の仕業だと言う。口実を見つけては、他国の問題に関与し、政権を転覆するための干渉もする。全てアメリカの「ネオコン」勢力の仕業と言う。米国民は、彼らの「きれいごと」に聞き飽きたと言うことであり、今のアメリカの現状をみれば明らかなことである。国際干渉主義は、アメリカの一部でしかなく「多国籍企業」に有利な政策であり、アメリカ企業の1%の人達のための政策であつたと言う。

トランプが大統領になった時、日本のメディアも米国のメディアもこぞって、トランプの言うアメリカは世界の警察を止めてアメリカファーストで行くと言ったことに付いて、アメリカが孤立主義を採って「偉大な国になる」など有り得ないと言って批判し、トランプの大衆迎合主義として報道していた。それは全くの間違いであり恣意的な批判だと言う。著者の言う「ポピュラリズム」とは、「皆の衆の意見を大切にする」と言うのが本来の意味であり、大衆迎合でも無く孤立主義でもないと言うこと。要するにマスメディアは、グローバリズムと言う欺瞞に毒され、世界の常識から遅れていると言う論理である。

移民問題に付いても国際干渉主義者の主張とは、意味するところが異なり、本質を理解していないと言う事が詳細に論じられており、欺瞞のグローバリズムによる数々の弊害を本書は、具体例を挙げて論じており、世界平和の為に何がどうあるべきか、少なくともトランプの考えには、やり方に問題があるにせよ、正しい方向と著者は言う。

(致知望 2017年12月16日)

心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで/キャスリン・マコーリフ著・西田美緒子訳(合同出版 2017425日第一刷発行 本体2,300円) 

著者

サイエンスライター。『ディスカバー』誌の寄稿編集者。多くのメディアに科学記事を執筆し、数々の賞を受賞。年間の最も優れた科学記事を掲載するアンソロジー『ベスト・アメリカン・サイエンス・ライティング』にも選ばれている。

訳者

翻訳家。訳書は、ペネロペ・ルイス『眠っているとき、脳では凄いことが起きている』、ジェンマ・エリウィン・ハリス編著『世界一素朴な質問、宇宙一美しい答え』、アン・マクズラック『細菌が世界を支配する』、フランク・スウェイン『ゾンビの科学』ほか

はじめに マインドコントロールの達人

寄生生物が注目されるまで

宿主の習慣や外見を変える

ゾンビ化して協力させる

猫との危険な情事

人の心や認知能力を操る

腸内細菌と脳のつながり

空腹感と体重をコントロールする

治癒をもたらす本能

嫌悪と進化

偏見と免疫行動システム

道徳や宗教・政治への影響

文化・社会の違いを生み出す

謝辞 解説 

とにかく背筋が寒くなる内容。スリラー小説なんか比べ物にならない。作りごとに比べて、ここに書かれている内容は完全に科学的に確立しているとは言えない内容もあるが、少なくともそうした研究途上にあって、それなりの根拠があるからである。

 

近年「神経寄生生物学」と呼ばれる分野の研究が、これらのことを徐々に明らかにしている(解説、以下同じ)。

 

例えば世界中で3人に1人が感染していると言われるトキソプラズマ原虫。猫から人へ感染し、脳に住みつく。妊婦以外は問題ないとされていたが、心理学者や神経科学者の研究では、人の気分や性格を変えてしまい、そのせいで感染者が危険な行動をとったりすることが判ってきた。

男性は、規則を破り、人と打ち解けない傾向になり、交通事故などにも逢いやすくなるという(女性は逆で、規則に従い、社交的になる)し、統合失調症とのかかわりも指摘されている統合失調症はドーパミン値が高いのだが、トキソプラズマの居ついたニューロンは3.5倍も多くドーパミンを生産して脳内に溜まっていることが発見されている。また、歴史的に猫をペットとして飼う習慣の広まりと、統合失調症の発生率が急上昇した時期は重なっている。

この原虫はネズミから猫に移るのだが、その方法も魔術のようだ。

猫を嫌う筈のネズミが却って猫に魅かれるようになる。ネズミの性ホルモンに作用し、嗅覚を変えることで、猫をセクシーと感じるようになる。人間でも感染した男性は猫の尿の匂いを好ましく感じるようになる(本文では媚薬とまで言っている)。

 

私は犬派なのでヤレヤレと思ったら安心できない。

トキソカラという回虫は、犬から人の脳へ感染し、知的障害を起こすリスクがあることが判ってきた。回虫の幼虫が、脳内の学習と記憶に関わる領域に集まり、影響を及ぼす。子供たちの学習能力の低下は、或いはこの寄生生物のせいかもしれない。

 

寄生生物と宿主は何十億年と競い合いながら今に至る。最近はウイルスに寄生され、多細胞生物は細菌に寄生された。寄生生物も進化し回虫、ダニ、ヒル、シラミなど多様化した。今では宿主の防衛を上手く切り抜けた寄生生物と、侵入者を追い払う優れた技をもつ宿主が自然選択の結果として残っていると言える。

(恵比寿っさん 20171218日)

リメンバー─「真珠湾」を演出した男/ウィリアム・ホーナン著・古賀林幸・藤田佳澄訳(徳間書店 1991年11月30日 本体1,800円) 

日本の真珠湾攻撃から2017年で76年、軍事史的には評価されるこの奇襲戦法も長く“騙し討ち”といわれてきたが、もしこの作戦が日本独自のアイデアではなく「盗用」だったとしたら?

1967年、著者はニューヨークの小さな書店で、イギリスの作家で軍事ジャーナリストのヘクター・チャールズ・バイウォーターが書いた‟The Great Pacific War“という1冊の本を見つける。内容は、日本がフィリピン、グアムを奇襲、アメリカは太平洋の島伝いに反撃を開始し、最終的には日本が敗北するという、まさに実際の太平洋戦争を正確に予言した日米戦争のシミュレーションであり、とくに真珠湾攻撃の16年前に書かれていたことに驚く。

同書は1925年の出版直後から米英政府始め軍関係者や軍事専門家の間で評判になり、日本でも「太平洋大戦争」という題名で翻訳されて海軍関係者を中心に広く読まれた。バイウォーターは1920年に日米の軍事バランスを分析した「太平洋の海軍力」を書き、アメリカ海軍大学の学長が絶賛していた。もちろん、日本海軍軍令部もこの本を翻訳して海軍幹部に配布、彼の名はすでに当時日本海軍でも有名になっていたようだ。

日英米の軍事関係者の間では、1922年のワシントン軍縮条約での日本の処遇や、アメリカのハワイ併合に対して独立運動を支援した日本の立場などから、軍備拡張を続ける日本とアジア・太平洋に覇権を維持する英米とくにアメリカとの間で、近い将来太平洋を挟んで激突することは必至と思われていた。バイウォーターは、この点について軍事専門家を凌ぐ精密な分析力を持っていたようである。

なお、日米戦争不可避を唱えるバイウォーターと、否定論者で後にアメリカ大統領になるルーズヴェルトとの論争も紹介されているが、ルーズヴェルトの本心はどうだったのだろうか。

早熟で幼い頃から軍艦に興味があったバイウォーターが初めて日本海軍に関心を持つのは10歳の頃で、劣勢といわれたイギリス装備の日本艦隊が黄海海戦で、圧倒的な数のドイツ装甲艦を擁する清国海軍を撃破したことだという。彼は20歳で「ニューヨーク・ヘラルド」紙記者となり、日露戦争では日本海海戦を取材、日本軍の旅順攻撃の記事がジャーナリストとしての最初の仕事になった。その後、彼は欧米各紙の特派員としてアメリカ、日本、ドイツ海軍などを取材しながら、イギリス情報部員としても各国の海軍艦艇に関する情報収集など、軍事ジャーナリストとしての力量を見せていく。

真珠湾攻撃の立案をした山本五十六もこれらを熟読した1人で、同じ1884年生まれのバイウォーターと2人だけで意見交換をした事実もある。本書によれば、バイウォーターは開戦1年前に山本の指示で暗殺されたとされるが、その真偽は明らかではない。日本が敗戦するという筋書きについて国内世論は厳しかったが、バイウォーターは日本が無謀な戦争をしないために書いたと主張した。もし、当時その意見に対して冷静に耳を傾ける空気が少しでもあれば、歴史はまた違った方向に向かったかもしれない。

アメリカのピュリツァー賞作家、ジョン・トーランドの「真珠湾攻撃」に興味深い記述がある。1932年3月7日、真珠湾攻撃と同じ日曜日、カリフォルニアからハワイに向かったアメリカ海軍の空母「サラトガ」、「レキシントン」から発進した150余機の艦載機は、日の出とともに北側の山から陸軍航空基地と真珠湾に襲いかかり、たちまち制空権を握る。同年4月の陸海軍合同演習でも、攻撃側は空と地上を制圧した。

アメリカはこの時点で日本によるハワイ奇襲を想定しており、日本の海軍大学校は1936年「対米作戦における戦略戦術の研究」のなかで、「アメリカの艦隊主力が真珠湾に停泊しているときは、空からの奇襲による開戦を考えるべき」と記したが、アメリカは「守備側も強力な航空兵力を持ち、オアフ島への空襲は攻撃側空母を危険に陥れ、成功は考えられない」と結論付けた。アメリカ政府首脳部がハワイ現地軍に対して日本の奇襲情報を封印したことが真珠湾の損害を大きくしたことはよく知られているが、アメリカが本当に驚いたのは、日本が真珠湾攻撃を実行し、しかも完璧なまでに成功させたことである。

「太平洋大戦争」には、“1931年から1932年までの日米軍事行動の歴史”という副題が付いている。つまり、アメリカは2年で日本に勝利するという意味で、山本五十六が「開戦後の1年か1年半は存分に暴れてみせる…」と語ったとされる点と奇しくも符合する。

本書はこのように、日米の関係資料をはじめ日本やイギリスを取材し、歴史家などとの討論を重ねた著者が、真珠湾奇襲はバイウォーターの「太平洋の海軍力」、「太平洋大戦争」をシナリオにしたと大胆に結論付けた興味深い書である。

(本屋学問 20171221日)

吉田茂-尊皇の政治家-/原 彬久(岩波新書 本体800円)

 

吉田は明治39年、外交官試験に合格して以来、戦前戦中を満州、欧州を中心に外交実務家として歴任する。本書がたどる外交官としての吉田は、外交官のワクを超えた政治的主張や、上司に対する直情的な抵抗でソンをすることが多かった。しかし、ヨーロッパ外交官でただ一人「日独防共協定」に反対したように、政治的な大局観は確かだった。戦後、政界に転じた吉田が、幣原内閣の後を受けて旧憲法下最後の「大命」を拝受したのは、外務大臣として総司令部から「憲法草案」を受け取ったその3か月後、すなわち昭和215月だった。そして憲法第9条が吉田を苦しめる。

吉田は憲法9条について、政府案が上程されたばかりの衆議院で、共産党の野坂参三の、自衛のための「正しい戦争」論に対して、「国家正当防衛権」を認めることが「たまたま戦争を誘発する」がゆえに、「正当防衛権」自体を「有害」であると断言した。しかしやがて第9条の拡大解釈、いわゆる「解釈改憲」にシフトする。同じ吉田(第3次吉田内閣)が、「武力によらざる自衛権」の容認(昭和24年11月)から始まって、「自衛権の発動としての戦争」を承認し(昭和2610)、更には「自衛手段の戦力」を肯定(昭和273月)し、一転、それを否定する(昭和27年3月)。

さらに昭和2811月、吉田は、近い将来つくられる自衛隊を「軍隊」と呼んでいいこと、しかもそれは「戦力にいたらざる軍隊」であるがゆえに憲法の許容範囲内である、と述べている。いわゆる「自衛隊合憲論」である。以来、文字通り紆余曲折を辿り、今日まで憲法9条の迷走が続いている。

吉田は、憲法第9条は、いわゆる不磨の大典」ではないとして、戦後の「侵略的日本」「好戦的日本」の汚名を一掃するという政治的な意味合いが強かったとみる。したがって「いつまでも他国の力を当てにせず、自らも余力に許す限り、防衛力の充実に努めねばならない」と考えるに至ったようだ。

もう1つ、吉田を苦しめたのは、戦争責任にけじめをつける天皇の「退位」問題だった。この問題は、「東京裁判」判決時点で大きなうねりとなり、次いで日本が国家主権を再び手にする「講和条約」批准(昭和27年)の時に再燃した。これを吉田と同時にマッカーサーが真剣に危惧した。

同時に天皇は、国民に対して戦争への自責と謝罪の念を表明しようと考えていた。宮内庁長官田島道治が起草した「謝罪詔勅草稿」は、東京裁判判決(昭和231112日)の日を睨んで書かれていた。「朕、即位以来20有余年―」で始まるこの草稿で、天皇は戦争で国民に塗炭の苦しみを与えたことに「憂心灼(や)クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天ニ愧(は)ズ」と自らを激しく責めている。

ところがこの「謝罪詔勅草稿」は、なぜか公布の機会を逸したまま封印された。また、この問題は、講和条約の批准・発効の時(昭和2753日)、独立記念式典における天皇の「お言葉」に挿入することになり、天皇は、戦争への慚愧と国民への陳謝の心情をみずから田島長官に口述された。その田島草案を吉田首相が嫌って書き直す。それは「謝罪」という後ろ向きの色を払拭して、未来志向を狙うものであった。同案は皇室に近い安倍能成、小泉信三らの支持するところとなり、独立記念式典での「お言葉」となる。『この歴史の分岐に立って吉田が天皇の「退位」のみならず「謝罪」をも否定するという、この上なく甚大な決断を下したことだけは記憶されてよい』と本書はいう。

ともあれ、吉田の天皇に対する絶対的帰依は一貫して変わらなかった。吉田にとって天皇はすなわち国家だった。軍部の独善的政治支配に抵抗し、獄につながれて南京虫に食われたのは、民主主義を守るためではなく「天皇制護持」すなわち天皇の体制と統治大権を守るためであった。その一点で天皇の退位どころか自殺まで心配したというマッカーサーに「萬謝」し、強い信頼を寄せた。

吉田は総理退陣後、「海千山千荘」と号した大磯の大邸宅に籠った。政権を棄てて13年目の昭和421020日、吉田は89年と1カ月の生涯に幕を降ろした。

(山勘 20171221日)

吉田茂 断片録 原彬久著「吉田茂」より 

吉田は、マッカーサーと連携して「二・一ゼネスト」や「食糧メーデー」など戦後の騒擾を起こした共産勢力と戦った。それは米ソ冷戦下における米国の国策に協力するだけでなかった。吉田にとっては、共産勢力も戦前戦中の軍部と同じく天皇制と体制秩序を揺るがす許しがたい敵であった。

吉田にとって、日米安保条約は、単なる米軍駐留の取り決めであり、日本が集団的自衛権を行使できるまでは、日米の相互防衛条約ではない、と考えていた。自衛権を持たない国は、他国を助けることができないというのは米国の主張だったが、そうさせたのは米国が主導して設けた「憲法9条」であったというのは皮肉だ。本書は「身動きできなかった吉田の姿がよくみえる」と同情する。 

彼は体制を守る保守主義者だった。しかし彼を頭の固い保守主義者だと見る者は少なかった。「彼の保守主義、国粋主義、帝国主義は、欧米的教養とエリート民主主義とでも呼ぶべき“高級感”によって、古色蒼然の“何も変わらない保守主義”と一線を画した」(山崎寸感)といえそうだ。 

講和条約発効の記念式典における天皇の「お言葉」には、戦争犠牲者への「深甚なる哀悼と同情」の表明はあったものの、戦争を痛悔し国民に詫びたいという天皇の心魂(こころだま)はそこにはない。そして「分を尽し事に勉め、相たずさえて国家再建の志業を大成」せんこと、すなわち「退位せず」の決意まで宣明されている。かくて、国家最高指導者としての天皇の道義的責任を表明するのかどうかという戦後史最大の問題は、何事もなかったかの如くに終止符が打たれたのである。 

実父竹内綱 茂は明治12年、竹内綱の5男として生まれる。その人生は、明治維新の激流の中に始まる。吉田の父は3人いると言われる。実父の竹内綱は土佐藩士で、維新後は、鉱山経営や朝鮮での鉄道事業などを手掛ける。西南戦争の西郷軍を支援した疑いで禁獄1年の刑。その後、板垣退助の自由民権運動に加わり、明治23年の国会開設で日本最初の国会議員となる。 

育ての親吉田健三 第2の父は実父の友人で横浜の富豪吉田健三。茂が吉田の籍に移ったのは明治14年。吉田健三は福井藩士の子。英国軍艦に雇われ、英国に2年滞在、帰国後、横浜の外国商社で資金を稼ぎ、英学塾、東京日日新聞、日本初の電灯会社などの経営に関わり、板垣や竹内と親交。明治2240歳で死去。茂は若干11歳で莫大な資金と大磯の敷地・邸宅を相続。 

岳父 牧野伸顕 牧野は、明治の元勲大久保利通の次男。牧野は明治12年の外務省御用係を振り出しにロンドン、イタリア、オーストリア公使を歴任、帰国後の昭和39年(吉田の外交官試験合格の歳)には西園寺内閣の文部大臣、のち枢密顧問官となる。吉田は牧野の長女雪子と結婚。吉田30歳、雪子19歳だった。牧野は女婿吉田茂に栄達の閨閥と権力の強縁を供した。 

吉田の学校遍歴が見事。漢学の私学校「耕余義塾」で5年、杉浦重剛の「日本中学」で1年、高等商業学校(現一橋大学)で2カ月、正則尋常中学校卒業、慶應義塾大学中退、東京物理学校中退、学習院の中・高等学科、大学科から東京帝国大学に転学し政治学科を卒業。28歳になっていた。学校遍歴の中で特に吉田に大きな影響を与えたのは、日本中学の杉浦重剛。杉浦は後に東宮御学問所御用掛として皇太子(後の明治天皇)に倫理を進講するが、その杉浦の日本中学における教えが儒教道徳論と皇室崇拝の思想だった。 

吉田は人の好き嫌いが激しかった。「嫌いなのは韓国の李承晩、インドネシアのスカルノ、そして河野一郎だ」と言った。岳父牧野伸顕には傲慢さをみせることなく素直に政局観や心情を吐露し、頼み込んで第一次大戦終了後のパリ講和会議に同伴するなどの“甘え”も見せる。彼の「バカヤロー解散」はよく知られるが、バカヤローは口癖だったという。偉大にしてかつ愛すべき人物だったようだ。

 エッセイ 
 ホツマツタヱ・エッセイ・斎宮(いつきの宮)とその誕生の背景など 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホツマツタヱの記述の中から、神武天皇から景行天皇までを抜粋した展開図を添付します。

その中から、いくつか気が付いたことを取り上げてみました。 

1-A

 ⑥孝安天皇は、12妃が居られたにも関わらず、誰も世継皇子に恵まれず、名を代えた兄の春日親王の娘、オシ姫を妃にしました。。

1-B

 ⑨開化天皇は、父親の后であったイカシコ姫をイキシコ姫と名を代えて自分の妃に迎い入れました。

 この2点は、後に、儒教精神の持ち主であった記紀編纂の著者から見ると文明国の人のするわけにいかず、この部分を抹消したと考えらます。日本書紀は日本を文明国として知らせるため漢字で記されたものを遣唐使に持ち込んでいます。

後に「欠史8代」と言われるようになったことが理解できます。 

 上記、⑨開化天皇は、父親の后であったイカシコ姫をイキシコ姫と名を代えて自分の妃に迎い入れるにあたり、「オミケ主」がこのことを咎めたが、母親が違うからと無視された経緯があります。後に、このことが大問題になります。 

2.⑩崇神天王の代になり、疫病が流行り、国民の半数が死滅してしまう大惨事が発生します。

そこで、崇神天皇は神に祈り、今までの祈りが不十分であったと考えられるあらゆることを実施します。

娘のトヨスキ姫に、笠縫に天照神の御霊を祀らせます。ヌナギ姫にはヤマベの里に大国魂の御霊を祀らせます。 

3.トヨスキ姫は、神の告げにより、御霊笥を担いで、丹後の「よさ宮」(籠神社)へ行きました。天橋立の松に大和の笠縫村から雲がたなびいているとあり、御霊が繋がったと言っています。(丹後の埋葬地から大和まで)

 前後して、近江(淡海)から美濃へ、伊勢の飯野の鈴鹿川に高宮を作って鈴(天照大神の御霊)鎮めました。

天照神の御霊を祀る皇女が後世に亘って斎王と呼ばれるようになったことが分かります 

 天照神は亡くなったとき丹後に埋葬されていたからです。理由は、豊受神がこの地に埋葬されており、天照神は豊受神と同じところに埋葬されたいという願いがあったからです。

では、なぜ、日高見に居られた豊受神がこの地に居られたかですが、当時この地は渡来系の住民といざこざが絶えず、現地を鎮圧するために出向きました。そのまま最後まで、この地を治めておられ、そこで亡くなられた経緯があります。当時、大陸から多くの人が流れ込み食糧不足に陥っていたことが原因と考えられます。 

4.名前(イカシコメ→イキシコメ)を変えて息子のお妃になるという背景

 この時は天皇が逝去されたら、お供の者もすべて殉死していたであろうことを思い起こす必要があります。多分、殉死から逃れるためにも、名を代えて腹違いの息子の妃になることで生き延びる方法を見つけた結果だったのではないでしょうか。

 

5.⑪垂仁天皇の代になり、兄の死に際して生きたまま埋められるという残酷な殉死を強いられる人々の悲鳴を聞き、ことの無残さを知り、以後、殉死する人に代わって「はにわ」を作って安置することに決めることになります。

 

6.トヨスキ姫→ヤマト姫ヨシコ

 

トヨスキ姫103才は、ヤマト姫11才で御杖(みつえ)の役に。

天照神を奉祀していたトヨスキ姫から、身に着けていた御霊を解き放ちヤマト姫に付けました。

 同時に、いわい主(官房長官)、神饌の守、神主なども新たにしました。

 特に、気になったのが「天の日置」は神主とあり、日本全国を計測していた人物の存在がここで分かりました。

以前NHKでも放送された、「知られざる古代 謎の北緯34°32′をゆく 水谷慶著」に日置の測量地点の記載があります。

7.ヤマト姫ヨシコ

宇治に至りてこれ神風の伊勢の宮とあり、最終的に伊勢内宮に天照神、外宮に豊受神を祀ります。

108才で14才になったイモノ姫クスコに引き継ぐまで

 物部(モノノベ)が80人、司(ツカサ)が12人も引き継がれたとあります。

当時、弟の景行天皇は纏向(マキムキ)宮で、皇子男55人、皇女26人、総勢81人にも及ぶ壮大なものであったあり、この斎宮ではそれより大人数であったことが分かります。

 

 ヤマトタケが景行天皇の勅使として東征に向かうとき、とムラクモツルギ(昔、ソサノオが出雲の国を開いたときの剣)を授けた。この伊勢で暦を作っていたことと、その暦が日高見にも届いています。

 

これらから、魏志倭人伝にこの時のヤマト姫のことを卑弥呼と呼ばれるだけの背景が揃っていることが頷けます。「ひみこ」は、個人名ではなく、元々は「ひのみこ」のことで、「ひ」は天照神で、天照神をお守りする「みこ」(皇女)であるからです。

 

8.3代目斎王イモノ姫クスコ 

 

 ホツマツタヱの記述は3代目のイモノ姫クスコ(38-19)までです。

イモノ姫クスコは14歳で内親王に、ヤマト姫は108歳の長寿でヤマト姫からイモノ姫クスコにミツエシロ(御ろ)を引き渡しました。
(ジョンレノ・ホツマ 2017年12月22日)

「勝負」と「品格」の勝負 

「ついつられ万歳をして後悔し」―これは読売新聞に掲載された「よみうり時事川柳」の一句だ。私の主宰する“めけり川柳”の駄句には、「鋭すぎ飛び出しめけり日馬富士」「白鳳は独善傲岸極めけり」がある。そこで今騒がれている相撲界の“暴力事件”について素人の雑感を述べてみたい。

まず、九州場所の千秋楽で優勝インタビューの折りにみせた、場所がらもわきまえない白鵬の言動である。ここで白鵬は、渦中の問題力士である「日馬富士関と貴ノ岩関を土俵に上げてあげたい」と発言した。この明らかに出過ぎた発言、“越権発言”にまずビックリ。さらに白鵬が観客を促して万歳三唱をさせた一瞬、私はヒヤリとした。ところが、私の見た限り、その日のテレビニュースも翌日の新聞も、事実は報道したものの白鵬を非難する発言や記事はなかった。マスコミや解説者が白鵬非難を始めたのはそれからで、このマスコミの鈍感ぶりには驚かされた。

この白鵬の独善的な振る舞いで、あの日、せっかく安くもない料金を払って相撲見物に出かけた人たち、素直に喜んで万歳した人も、戸惑いながらも日本人的な“付き合い感覚”で万歳した人も、後味の悪い思いを残す気の毒な結果になった。

次いで感じたのは、マスコミのミスリードの恐さと白鵬の“ずるさ”である。最初は、日馬富士が、説教を聞かない貴ノ岩に対して突然暴力を振るい、これを白鵬が止めに入って収めたと報道され、日馬富士の性格や凶暴性が世間の厳しい非難を浴びた。暴力を振るった動機や経緯について事実が解明されるまでに相当の日数がかかった。その間、日馬富士自身は言い訳をしなかった。

事実は、酒席の一次会でも、二次会でも、白鵬の説教があり、一次会における白鵬の説教では、日馬富士が日ごろ可愛がっている貴ノ岩をかばい、二次会における白鵬の説教では、スマホをいじっている貴ノ岩を日馬が叱ったが、「貴ノ岩は、彼女からのメールですと苦笑いを浮かべた。日馬は白鵬が説教をしているさなかにスマホをいじったことに腹を立て」(危機管理委員会による中間報告)、貴ノ岩に謝罪させようと平手で顔面を殴ったのが事の始まりで、暴力がエスカレートした。

この事実が判明してから、やっと白鵬は、自分の説教からことが始まったことを口にした。しかし私の知る限りこの白鵬発言があった日も翌日のマスコミも、事の始まりは白鵬の説教にあったという発言の重大性を取り上げなかった。いまだにこの重大性はまともに論じられていない。日馬はこの事実をマスコミに向かって語っていない。語らぬまま引責辞任を公表した。

事のいきさつを調査して「中間報告」を発表した、危機管理委員会委員長の高野利雄さんは、日馬がスマホを止めろと貴ノ岩を叱った時、「そこで謝罪していれば、その先(の暴力)に行かなかったかもしれない」と言う。高野さんは、元名古屋高検検事長、人に罪を科すことを生業とした元検事である。その人が庶民的で情のある感慨を述べているのだ。日馬と殺人者を対比するのは失礼だが、殺人者の場合でさえ即死刑とはならず犯行に至った動機や事実に基づいて情状酌量や罪の減免がある。力士の暴力は許されるべきではないが、暴力即引退でいいのかどうかは一考を要しよう。

この事件の決着はまだわからない。これを書いたのは12月初めだが、マスコミの興味は貴乃花と白鵬の対決に向かうだろう。ある相撲の“専門家”は、「貴乃花には貴乃花の相撲観があるが白鵬には白鵬の相撲観がある」と言う。しかしそれは了見違いだ。問題は、白鵬の「勝負」重視か貴乃花の「品格」重視かだ。「勝負」にこだわれば、結果はきれいな勝ちだけでなく汚い勝ちもあり得る。「品格」にこだわれば、結果は品格のある勝ちか、負けても品格を失わない負けになる。勝っても負けても「品格」のある横綱相撲を見みたいものだ。相撲協会の裁断もそうあってほしい。

(山勘 2017年12月21日)

筋金入り 日本の「謝り文化」 

近ごろ「謝り文化」なる言葉が聞かれる。日本人は何でも簡単に謝る。日本は「謝り文化」の国だというのである。最近の例では、定刻より約20秒早く発車したことを「深くお詫び申し上げます」と謝罪した電車会社が話題になった。なんとこれを海外のマスコミが取り上げて「日本はすばらしい」と褒めちぎったというのである。「謝り文化」かどうかしらないが、確かに日本人は「すみません」が口癖だ。最初に覚える英語が「アイ アム ソーリー」だ。

そういえば企業や組織の不祥事が続発して、テレビでも謝罪の記者会見が続く。いつの頃からか、お詫びの記者会見では、トップの謝罪挨拶の後、出席役員などが一斉に起立し、同じタイミング、同じ前傾姿勢で、同じ所要時間?で頭を下げるお詫びスタイルが“確立”した。

それで面白い“戯れ言”を思い出した。今年初め、某日の日経新聞「春秋」欄の、「初めて聞いて、驚いた/事実とすれば、大変だ/早速調べて、善処する」という、20年以上も前に日経の先輩記者が作ったという七五調の“謝り挨拶”だ。これに春秋氏は「白々しいにも、ほどがある」と続けている。

要するに何十年経っても不正のタネは尽きないということか。少し前には、東芝の会計不正、三菱自動車の燃費不正、最近では日産自動車や神戸製鋼所の検査不正がある。日産自では無資格の従業員による車両検査、神鋼では製品性能のデータの改ざんがバレた。

「謝り文化」に倣って言えば、謝りの前に臭いものにフタをする「隠し文化」があろう。ただし「隠し文化」は日本固有のものではない。むしろ欧米を中心とする国際的な政治、経済、軍事上での「隠し文化」のほうが“大掛かり”で“欲得づく”の「隠し文化」である。

日本の場合は、“謝り”も“隠し”も、総じて金銭欲の薄い心の問題だ。その歴史的背景には多分に儒教的な“道徳律”がある。さらに遡れば和を尊ぶ“大和ごころ”がある。

評論家の加瀬英明さんは、その著「日本の奇跡、中韓の悲劇」の中で、『平安時代の平城天皇は、大規模な水害に見舞われた後に、「朕の真心が、天に通じず」天災を招いてしまったが、「この災いについて考えると、責任は朕一人にある」といって、自分の不徳を責めている』と言っている。

また、これは友人に教わったが、さらに古代の崇神天皇は、疫病が流行って多くの民が死んだとき、この悲惨な状況が続くのは自分の神祭りが足りず、天に祈りが届いていないために神の咎めを受けているのだと自らを責め、神に助けを乞い願ったという。

現代でいえば、昭和天皇がマッカーサーに「私は、戦争遂行の過程で発生したすべての事態に全責任を負う。全指揮官と全政治家の行動にも責任を負う」と述べている。

加瀬さんは、先の話に続けて「日本では、天皇から国民まで詫びることに躊躇しなかった」と歴史を振り返っている。要するに、日本の「謝り文化」は“筋金入り”なのだ。

話を戻すと、神鋼のトップが、謝罪の記者会見で述べた「現場の困りごとを理解していなかった」という謝罪の言葉がいい。問題は、経営陣が現場の実態を知らなかったことだが、たぶん現場は「納期」と「コスト」に追われて「品質」の手を緩めがちになっていたのであろう。士気が緩んでいたのではなく、追い詰められてもいたのかもしれない。そのことを「現場の困りごと」を理解していなかったと悔やむトップの態度は、きわめて日本的であり、自己反省的であり、「謝り文化」の発露ではないか。

ただし、神鋼は、再発防止策として現場任せでない全社的な品質管理機構の強化を図るというが、これは品質管理機構だけの問題ではない。時代と共に殺伐としてきた労働環境の中で、「謝り文化」のような真摯な日本精神まで希薄になってきているのではないか。難しいことだが、企業不正を正すためには、働く者の日本的な意識改革と企業風土の再構築が必要だろう。

(山勘 2017年12月21日)

重力波測定の難しさ 

地デジNHK E 12:3013:00「ノーベル賞2017重力波が切り開く新天文学」が放送されました。身近なところに重力波観測装置があり、放送のことを知らずに見学させて頂きました。

https://stat.ameba.jp/user_images/20171214/18/putt-greenkeeper/6e/2f/j/o1652092914090916819.jpg

TAMA300のレーザー光源の部分


https://stat.ameba.jp/user_images/20171214/18/putt-greenkeeper/a6/b2/j/o1652092914090917289.jpg

レーザービームスプリッター ここでレーザーは右側と写真の後方へ分割されます。ここから伸びるパイプの先300mにそれぞれミラーがあります

重力波(時空の歪み)が生じることは一般相対性理論が予言していましたが、提唱者であるアインシュタイン自身はそれを実測することは難しいと指摘(アインシュタインの遺した最後の宿題と言われてます)してました。地球に到達する重力波はそれだけ時間的に空間的に微弱だからです。

ところが、これを直接検知することができたのでノーベル賞となったわけです。その辺りのことは各種報道がされているので、必要な方はググってください。

重力波測定の原理は簡単です。

レーザーを使ったマイケルソン干渉計で、身近にあるTAMA300(*1)では、基線長(ミラーまでの距離)は300m。いま建設中のKAGRAでは3000mです。

ここでは、その小ささがどのくらいかについて、私の俄か知識を紹介させて頂きます。

1.時間の大きさ

重力波がどのくらいの時間的な軌跡を残すかですが、大まかに言えば0.1秒。どのような波形になるかは理論的に解析されてました。これは我々の感覚と近い、というか身近な時間幅です。

2.空間の変化の大きさ

微弱なので、アインシュタインも直接観測するのは出来ないのではないかと考えていたわけです。

他の銀河系で(例えばブラックホール同士が合体して発生した)重力波が地球に到達するころには、微弱だということは想像できますが、これが何と最大振幅が1pm(ピコメーター)と言われています。検出するには「1021乗分の1」という途方もない高感度な検出器が必要だということです。

よく言われるのが、地球・太陽間距離を分母にしたときに、分子は水素原子1個分の大きさくらいと言われています。これは、干渉計の鏡の表面を構成する素材の分子運動の影響を受けるくらいの振幅です。

なので、このような微弱な空間の歪みを検出するのに、いろいろな工夫が必要で、ノーベル賞につながったLIGO(米)は基線長4000mと長くすることで感度を上げています。それでも不十分で、日本の研究者が更に感度を上げる工夫し1000倍も感度が高まっています。

KAGRAでは、ミラーを極低温な状態に冷やして、ミラー素材の分子運動を無くす(ゼロではないでしょうが)ことまでやってます。

なお、検知した観測波が理論通りの波形をしていても、それが重力波かどうかは保証されません。で、LIGOで初めて観測した時に、関係角国に即座に通知され、電波望遠鏡などでも観測がされました。

これは重力波ではなく爆発現象が観測されたわけです。

重力波はその時点ではとっくに通り過ぎちゃってるわけですが、爆発そのものは余韻が残ってるので、特定できるわけです。これがブラックホール同士の衝突でしたら光は出ないので、特定は難しいのですが、今回は中性子連星の合体による重力波だったので、電波望遠鏡などでもその余韻が観測できたわけです。 また、どこから重力波が来たかは、地球上の3か所で観測することで特定することが出来ます。

TAMA300:国立天文台三鷹キャンパスにありますが、この施設は公開されていません。今年はノーベル賞絡みで11月に公開されました。

5年生のときに自作ロケット暴発で大けがをしたにもめげず大空に思いを寄せていた科学好き少年は、今では足元(芝)を見つめています()が、相変わらずの科学少年を自認しています。

(恵比寿っさん 20171218日)