例会報告
第48回「ノホホンの会」報告

 2015年9月18日(金)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:致智望、山勘、高幡童子、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

 狸吉さんが残念ながら急用で欠席でしたが、雨模様にもかかわらず皆さん元気に集合しました。今回も健康医学、軍事、インターネット社会、政治問題とくに安全保障関連法案についての是非をめぐって議論が活発でした。いずれも実に難しいテーマです
が、関連の書籍は今後も出版されるでしょうから、これからも書感やエッセイで大いに紹介されることを期待しています。

(今月の書感)

 「歯は1日で治る―自分の歯を守る驚異の根管治療法」(致智望)/「こんなに弱い中国人民解放軍」(恵比寿っさん)/「森を見る力 インターネット以後の社会を生きる」(ジョンレノ・ホツマ)/「脳の学校ワークブック」(本屋学問)/「民意のつくられかた」(山勘

(今月のネットエッセイ)

 「私は誰でしょう―人間の証明」(山勘)/「“貧乏絵描き”の存在意義」(山勘)/「未来の地球」(高幡童子)/「『現実論』と『理想論』の対決」(山勘)

(事務局)

 書 感

歯は1日で治る―自分の歯を守る驚異の根管治療法/谷口清(ルネッサンス・アイ本体1,300円)

本書の著者谷口清は、保険適用外の歯医院を経営する歯医者である。日本大学の歯科を卒業し大学の研究員を務めた後、30才で独立した、所謂町医者である。

 歯科医と言うと、患者を何日も通わせ歯の治療を行うのが普通である、これは保険の点数稼ぎ以外の何物でもないと谷口先生は言い切る。歯をいじくりまわして歯の寿命を短くしているのが実態であると、本書の始めから歯医者の在るべき姿を手厳しく批判する論調から始まる。 

そもそも、人間の歯の寿命は人の寿命よりも少し長くなるのが自然の法則であり、その歯をいとも簡単に抜いてしまう、それも保険の点数稼ぎの為に。 

そもそも歯科などは医学会では学問と認められない、だから日本の医学の大御所である東大医学部、京都大学医学部、そして3大大御所の1つ慶応大学医学部には歯科が無いと言う。しかし、東大病院には歯科があるそうで、有難がって行く人が多いそうだが、ここから回される患者は、医師が新人ばかりで歯を抜く技術が無いから、健康な歯を残して回ってくるのでやり易いと言う。患者が、東大病院の権威を有難がって行くのであろうが、そこには何もない。

 世間一般の歯医者にはろくな医者がいないのでその表れかも知れ無い。歯科医師は最短24歳で医師免許が貰え医者の中でも安直に免許がもらえ、保険適用医師として認可される。だから地元の医師会などは、保険に寄生する医者の集まりと化し、自分の様な(著者本人)、患者の治療を第一に考えて治療に励んでも、保険の悪用で生きているやぶ歯科医には収入面で負ける。おまけに、自分の様に保険点数に関わらず一日で治療を完了したりすると中傷されたりすると言う。地元の歯科医師会などは、老先生などが率先するから性質が悪くなる、言う事も最低の連中と言う。 

 この先生の治療法は、根管治療といって歯を抜いたり、削って被せたりせず根を治療するとのこと。また、歯槽膿漏は、患者と一体になって治すようにすると言う。この根管治療は元々アメリカで提唱されたもので、日本では自分が最初に手掛け、いまでは、医師会の爺どもがその技術をやっと認める様になって来ていると言う。しかし、この治療法は最先端の技術で歯科医師100人中1人の割合でしか技術を持ち合わせないと言う。しかも、保険医療制度ではやって行くことが出来ないと言う。

 歯科治療の保険適用は酷いもので、例えば歯石取りも保険対象で殆どの場合1回で出来るのに4回に分けて保険治療が認められるから、必要もないのに4回に分けて保険請求するのが普通と言う。それを谷口先生は、お構いなしに1度ですませると言う。保険対象外医師だから、患者の立場優先で全てを考えると言う。

 私の歯は、若いときから弱く被せた治療の歯が多い。最近と言ってもここ5,6年だが人の紹介で通っている歯医者は、保険対象医であるが、歯槽膿漏の手当てなどは、谷口先生と同じ方向の様で安心している。しかし、その他の点で良いのかどうか、歳を取ったので次々と不良個所が現れるので、実際には訳が解らないでいる。

 本書は、有能な歯科医と保険制度の矛盾をテーマにしたもので、歯は99%抜かなくて済むと言う。歯のエナメル質をがりがり削り取って金属を被せるなどの治療、歯槽膿漏は抜けば治ると言って抜きまくるやぶ医者を汚い言葉を使って批判している。

 本書は、谷口さんの3冊目の上梓というが、この調子で書かれているなら前の書籍も読んでみたいと思っている。

 (致智望 2015年9月8日)

 

 

脳の学校 ワークブック/加藤俊徳(ポプラ社 本体1,000円 2015年4月7日第1刷)

 

高齢化社会が直面する最大の課題のひとつが「認知症」問題である。これは人間の尊厳ともかかわる重要なテーマだけに、その予防医学が強く求められている。
 
本書もそうした観点から編集されたもののようで、とにかく脳と身体をよく刺激して心身の老化を防ぐことが、食生活とともに認知症の予防には効果があるという。

著者は国立医療研究センターやミネソタ大学、慶応大学、東京大学などで研究にあたり、これまで1万人以上の脳画像を分析してきたMRI(磁気共鳴)診断のスペシャリストで、現在は「脳の学校」を主宰、代表を務めている。 

体のなかで一番寿命が長いのが脳で、年齢によって衰えることはなく、筋肉と同じで鍛え続ければ120歳まで生きる力があるという。著者は胎児から100歳の老人までたくさんの脳を見てきた経験から、「脳は日々の生活や運動、思考によって形を変え、脳は育てることができる」といい、新しい刺激を与えることでこれまで使われなかった脳細胞も活用できると説いている。 

一塊のように見える脳は実は次の8つの部分に分かれていて、各部分を機能ごとに分類したものを「脳番地」と呼ぶ。

①思考系(脳の司令塔で何かを考えるときに重要)

②感情系(死ぬまで成長し続け、喜怒哀楽などの表現を司る)

③伝達系(意思の疎通などすべての情報伝達を担当する)

④理解系(好奇心が成長を促し、与えられた情報を理解して将来に役立てる)

⑤運動系(脳のなかで最初に成長し、体の動作全般に関係する)

⑥聴覚系(言語の聞き取りや周囲の音など耳からの情報を脳に集約する)

⑦視覚系(見る、動きを捉える、鑑定するなどの視覚情報を脳に伝える)

⑧記憶系(情報を蓄積し、知識と感情との連動で伸びる脳番地)

そこで、これらの脳番地をまんべんなく強化して健康な脳をつくるために、本書では28日間、毎日のワークとエクササイズを課している。 

四字熟語、買い物計算、暗算、早口言葉、日記を書く、絵を描く、歌を歌う、利き手でないほうを使う、簡単な体操などを習慣付けて、①脳を番地ごとにバランス良く使うワーク(認知活動を強くする)、②日常動作を改善するエクササイズ(身体活動を高める)、③毎日の出来事や体調管理を記録するノート(記憶力を鍛える)を繰り返しやることで、普段使わない脳を動かし、脳番地どうしをつなげ、脳の個性を伸ばすことができるというのである。 

たとえば、「懐かしい」という感情は脳の健康さを量る大切なバロメータで、認知症になると昔の記憶のなかでしか生きていないため、懐かしさの感覚が乏しくなるという。だから、同窓会での再会など新しい記憶を重ねることで脳は若返る。恋愛感情は年齢に関係なく大切で、懐かしさとともに感情系脳番地を刺激するそうだ。 

本書が提案する“脳が成長する生活10か条”を紹介しておこう。 

・20歳若い自分を思い出し、その気持で行動する

・自分のことも人のことも、1日1回笑わせよう

・応援したい人、ワクワクできる存在を持つ

・悩み事は翌日に持ち越さず、いつも前向きに考える

・1日1回、自分を大いに褒める

・海や野山の自然を愛し、草花を育てる

・ゆっくり息を吸って長く息を吐く。これを1日10回やる

・出会いに、今生きていることに感謝する

・良質な食事、規則正しい睡眠を確保する

・体を手入れし、正しい姿勢を保ち、運動をして汗をかく

 ただし、毎日このワークブックをやるとなると、かなり大変である。だから、いつもこの本をそばに置いて、パラパラめくって面倒くさいと思うだけでも多少は脳が刺激され、認知症の予防になるのではないか。90歳を過ぎてもまったく生活習慣を変えることなく、元気に暮らしている人もいるのだから。 

(本屋学問 2015年9月13日)

 

森を見る力 インターネット以後の社会を生きる/橘川幸夫(晶文社 2014年2月発行) 

著者はデジタルメディア研究所所長という方です。

裏表紙に、インターネットは社会を便利で快適なものに変えたが、一方で人間の生命力を弱めていないか。「木を見て森を見ず」の言葉どおり、わたしたちは細部にこだわるあまり、全体を見通す目を失ってはいないか。ネットがあたりまえのものになり、データが氾濫する時代には、データではなく「森」を見よ!数々の企業、商品開発、広告戦略、メディア、教育行政の現場に携わってきた著者が描く、あたらしい情報社会の見取り図。とあります。 なるほどと感心したことを2つだけ拾い上げました。 

一つは受信者負担から発信者負担という内容について:

 アフター・インターネットの世界という内容の中で、従来のビジネスの構造の大半は受信者負担であった。本の場合著者は原稿料を貰い、読者は本の代金を支払う。その間にいる、出版社や印刷業者や流通業者がビジネスを行うという構造である。

 しかし、インターネットの世界では、発信者負担が原則である。研究者がウェブサイトで研究論文を発表、料理好きな主婦が料理レシピをブログで公開する、そうした行為は原稿料を目的としたものではない

インターネットが何をしたかだけではなく、発信者負担をして、情報を発信しているのである。 これはインターネット以前の世界では、道楽者の行為である。しかし現実に大半の人が、そのようにして情報発信をしている。

それはボランティアの世界と通じるものがある。ボランティアというのは、実はタダどころか、参加するための費用をも負担しているのである。

ボランティアとは、無償の行為ではない。自らの社会的な役割のための労働であり、そうした労働を行うことの喜びが対価なのである。

 インターネットの表現もそれに近い。自分自身が発見したこと感じたことを、身銭を切ってでも伝えたいという、表現の本来の欲求に根ざした行為なのである。

私がホツマツタヱの解読を楽しみながらブログに情報発信しているのも、今まで意識したことはなかったのですが、なるほどとうなずけました。 

もう一つは、「3・11以後の社会の中」で、著者の発想に感心したのが、

「原発を止める、ただ一つの道」というテーマを大量生産・大量流通からの脱出という観点から捉えていたことです。

「原発事故が怖いから原発反対」というのは「戦争が怖いから戦争反対」と言うのと同じで、それだけでは原発はなくならない。

「人間は一度得てしまった環境を、急速に手放すことは出来ない。大量生産・大量消費の方法論とは違う次世代の産業方法論が必要になるのだ。

 原発をなくす方法は、ただひとつである。電力を可能な限り必要としない産業を育てることである。

ただただ電力の生産量を拡大していくことが唯一無二の目的であった時代は終わっているのである。

省エネルギーのための節電技術を、国家をあげて取り組むべきである。大量生産・大量流通でない、地域密着型の生産・消費構造に転換するべきだ。

農業の地産地消だけではなく、工業もサービス業も教育も、地域単位で循環するような社会構造を目指すべきだ。

そして、日本人の持つ特性を活かした商品やサービスやエンターテイメントを、世界に示すべきだろう。世界標準の商品はマーケットもグローバルだが、競争も激しい。最小限の投資で済むような、非競争的な産業を育成することが必要だろう。

電力会社は企業だから、発電の生産力をあげることが売上を伸ばすことになり、右肩上がりの企業成長が保証される。そのために国と組んで原発の普及をしてきたわけだが、ある時点から、必要とされる工場や家庭の消費量以上に生産性を高めてしまったのではないか。金融が、実能経済の枠を超えて資金が膨張し、やがてリーマンショックのように破裂した風景が、福島原発の崩壊の映像と二重写しになる。

風力や太陽力による代替エネルギーの議論が盛んになってきた。確かに、自然エネルギーの開発は、これからの社会にとって重要課題には違いないが、「原発の代替分を自然エネルギーで埋める」という考え方が、僕には違和感がある。

原子力の廃止で失われた電力を、他の電源によって代替するのではなく、これからの日本にとって必要な等身大の電力需要だけを生産する方向に進めばよいのではないか。原発をなくすためには、「原発は必要である」という立場の人間の根拠を失わせるしかないと思う。

代替エネルギーの議論の中で、休耕地にソーラーパネルを設置して、原発の分を補うという案が出てきたが、とんでもない話だと思う。現実的に言えば、福島県の大半は農業生産が数十年は不可能になるかも知れないという危機感の中で、日本の農地はこれから最も重要な資産である。休耕地にソーラーパネルを設置すれば、お金は入ってくるかも知れないが、貴重な農地を失い、雇用も増えない」 

最後に、著者が言うように、インターネットで直接、情報が簡単に得られると、従来のように到達するまでに失敗を繰り返し試行錯誤する時間も無くなるが、その間の無駄と思われる雑学が人間として幅広く豊かにしてくれていたと結んでいる。

しかし、逆にあまりにも情報量が多すぎ、求めていない情報に埋もれて真に必要な情報がどこにあるのか、自分の軸をしっかりしていないといけないと見極められないと思った次第です。まさに森を見る力を持つことになる。

(ジョンレノ・ホツマ 2015年9月13日)

民意のつくられかた/斎藤貴雄(岩波書店 本体1040円) 

本書のオビに、誘導、操作、偽装される「私たちの意思」とある。内容は、原発問題や、ちかごろとみにうるさくなった集団的自衛権など、いくつかのテーマ(原子力、ジャーナリズム、国策PR,捕鯨国ニッポン、道路とNPO、派遣村バッシング、五輪招致、選挙など)について、言論人や政治家たちによって操作される「民意のつくられかた」を解剖する。

 著者は、ジャーナリスト。早大、英バーミンガム大卒。新聞記者、雑誌記者を経てフリーになった。「安倍改憲政権の正体」などの著作を持つ“岩波好み”のライター。

 本書は「はじめに」、民意ってなんだろう―と書き出している。2008年に岩波の月刊「世界」から「民意偽装」のテーマをもらって連載を続け、それをもとに本書がまとめられた。

 たとえば本書は原子力問題に多くの紙数を割いているが、この稿を書き終わったのは福島原発事故の3カ月前。けっこう根強くあった「クリーンで安全な原子力」だとする“安全神話”が、3・11によってもろくも崩れ去った。筆者はそれ以前に早くも原子力をめぐる「民意のつくられかた」を追っていたことになる。そこで筆者は、(この著書は)「多少の時間の経過で簡単に古くなるような、薄っぺらな中身ではないぞ、程度の自負はある」という。

 その筆者が12頁ほどの「はじめに」欄で、半分以上の7頁ほどを割いて、慰安婦問題に端を発する過激なマスコミや世論の“朝日新聞叩き”を批判する。そして、このような「時代が醸成する空気、次の時代を築いていく民意の恐ろしさ」に警鐘を鳴らす。

 ここで全章を取り上げれば内容が浅くなるので、目下、騒々しい集団的自衛権について本書の主張を紹介しよう。首相官邸に設置された安保法制懇の実質的な最高責任者は、著者が“目のかたき”にする座長代理の北岡伸一氏(国際大学学長)である。その北岡法制懇が、集団的自衛権は明確に「憲法解釈の変更」であると前向きに“強調”する報告書をまとめたにもかかわらず、その後の閣議決定で集団的自衛権は従来の政府見解における憲法第九条の解釈の基本的な論理の枠内にあるとしたことに北岡氏が不快感を示したと著者はいう。

 これは「第1章 言論人が国策を先導するのか」での話である。著者は、「安倍政権の下で、これまでの常識では考えられなかったような事態が、次々に起こっているといい、米国の戦争に参戦する道を開く露払いの役目を担った北岡伸一氏という人物」を“槍玉”に挙げる。

 著者は、集団的自衛権行使の容認を「進む戦時体制づくり」だとし、政権側の「巧みなメディア戦略」を分析する。まず、徳山喜雄著「安倍官邸と新聞」の一節を引く。すなわち集団的自衛権の行使を訴えるのは「読売、産経、日経新聞」、反対するのが「朝日、毎日、東京新聞」であり、その中で北岡氏と読売新聞が密接な関係にあり、北岡氏は読売への寄稿とインタビュー(単独会見)で安保法制懇や集団的自衛権にかかわる情報を開示するという。

 また、北岡氏による「中央公論」(2014年11月号特集「メディアと国益」)の巻頭論文を取り上げている。「朝日新聞を代表とする日本のリベラル系のメディアは、「権力対人民」という視点で物をみることが多い。その上で人民の側、弱者の側に立つ。それ自体は立派なことであり、必要なことである。しかし、そういう視点だけでよいのだろうか。(中略)国益のために筆をまげろとは言わない。しかし、政府の向こうに外国があり、世界がある。政府が弱体化すれば、世界から見えるのは日本が混乱しているという状況であり、それは外国、他民族が日本をバッシングしやすくなることに通じる」という。

 そこで本書の著者は、「北岡氏自身が批判した戦前の状況を、その舌の根も乾かないうちに、今度は再現する側に回っている。大日本帝国時代の言論統制は悪かったが、アメリカの下にある戦時体制の時代においては、自由な言論もまた利敵行為でしかあり得ないということなのか。こんな時代には一刻もはやく別れを告げたい」と嘆き節で一章を締める。他章に触れるゆとりがなくなったが、本書の傾向、著者の立ち位置はこの一章でわかる。

(山勘 2015年9月15日)

 エッセイ 

私は誰でしょう―人間の証明 

軟弱なアタマで考えてもしょうがない難問であり、いい歳をした爺さまが考えることでもないかもしれないが、それでも時折考えることがある。人間ってなんだろう。第一、私という人間は何をもって私だと証明できるのだろう。私は名乗れる名前を持っているから私なのか。身分証明書や住民票や保険証などで証明できるから私なのか。しかしそんな付属物的な、社会の決まりごと的な人間証明を抜きにして、私が私であるという、生身の丸裸の私の存在証明は何なのだろう。

生身の、丸裸の、といえば他者から認知されるこの顔付きを持つ可視的な私の身体であり、次いで不可視的である雰囲気や精神だ。しかし主として可視的に、副次的には感覚的に他者によって認知されるから私が存在するのか。これでははなはだ面白くない。私が私であると言い切れる存在理由は何か。と若いころから考えていた。

たまたま読売新聞の7月ある日の「地球を読む」欄で、劇作家の山崎正和氏が、近ごろ流行りの「科学技術万能論」を取り上げ、レイ・カーツワイル著「ポスト・ヒューマン誕生」を紹介していた。同書は、今急激に発展している遺伝学、そして原子単位の操作と加工ができるナノ技術、それにロボット工学という3つの技術革新によって2040年ごろには人間そのものも改造されるだろうという。

 面白いのは、同書の本旨ではなく、著者カーツワイルが巻末近くに来て「なぜ自分が特定の人間なのかわからない」とチラリ告白しているところに山崎氏が注目したことである。

そこで(文章は少し違うが私ふうに解釈すれば)山崎氏は言う。「身体」は現代哲学における重要な概念である。例えば、私の「手足」は私の所有物であり、私に付属する客体である。一方、私が「歩く」と言ったとき、手足を備えた身体は私そのものであり、つまり主体である。要するに、身体・部位は、時に主体になったり客体になり得る存在である。

ところがカーツワイルは、人間の身体という“まとまり”を一顧だにせず、それを科学的に分解する作業を進めてきた。その挙句、世界を操作し管理すべき“自己”が内容を失い、自己が時に主体でもあり客体でもあるという、人間が本来持っている“曖昧さ”を見失ったというわけである。

山崎氏の論考の中でとりわけ私の気に入った一節は、カーツワイルに対する“望蜀の願い”として「古来、人間の本質は限界を持つ存在であって、それゆえに幸福にもなれたという事実に目を向けてほしかった」とし、「人間を強くする科学的改造は歴史の趨勢としても、だからこそ今必要なのは人間とは何かという哲学だと痛感させられる」とした結論である。

これは私の愚考だが、人間は人間の本質的な限界や社会的な制約の中で喜びも悲しみも味わうことができる。さらに突き詰めれば人間の持つ限界の最たるものは、何人にも訪れる「死」であろう。カーツワイルの人間改造が進めば、人間が死を免れる世界が実現する可能性すら否定できない。死ぬことのない人間にとっては哲学も宗教も無意味なものになり、怠惰な時間の中で芸術・文化も枯れ果てるのではないか。

個々の人間も心臓や肺や脳などの主要機能の欠損部分が人工的な“機能部品”に置きかえられていったら、どこまで個の人格と見なせるか。例えば特定の身体部位を人工的に強化したスポーツマンをどこまで容認するか、まさに人間そのものが問い直されるべき時である。

今こそ“私は誰でしょう“という自己への問いと“人間の証明”が問われている。そして、カーツワイルの人間改造の未来を望むか、未来永劫変わることのなかったはずの“生老病死”の人生ルールを良しとして自分らしく生きるか。私の場合は、与えられた命のままに生と死の意味を問い続ける古い人生ルールの中で生をまっとうしたいと思う。

 (山勘 2015年9月15日)

 
 貧乏絵描き”の存在意義 

 何の歌だったか忘れたが「私のお嫁に行く人はどんな人 お金持ちそれとも貧乏絵描き」という歌詞がある。絵描きにはなぜか“貧乏”という定冠詞?がつく。もちろん中には金持ちの絵描きもいるが、なぜか絵描きには“金持ち”より“貧乏”のイメージがぴったりくる。

 大方の若い女性の飾らない願いは“お金持ち”と巡り合うことであろうが、男の願いはちょっと違う。“金持ち”を目指すか“絵描き”を目指すかで大きく変わってくる。若い時にそのどちらを目指すかが人生の大きな分岐点になる。お金を目指すなら実業の世界に進む。絵描きの道を目指したら、まず、お金とは縁遠くなる人生を選択することになる。

 ただし、現代は、一昔前とは違って女性の“画家”が幅をきかせている。若い時代に“金持ち”になるか“絵描き”になるか二者択一の選択肢に迷うなどということもなく“画家”をやっている女性が増えている。またサラリーマンや定年後の余技で絵を描いている“ゆとり派”も増えている。さらに、絵一筋に人生を掛けた絵描きでも、親の遺産で食うに困らない絵描きも少しはいるし、すでに名を成して絵がバンバン売れている絵描きもいるし、教壇に立ったり弟子を増やして月謝で稼ぐ絵描きも少なくない。

したがって絵描きがみんな貧乏人だと言いきるわけにはいかない。しかし、確かな数字の根拠はないが、大雑把に言って絵画人口が5万人、絵だけで食おうと頑張っている絵描きが1万人とすると、絵だけで食っている絵描きは100人に満たないという辺りではないだろうか。やはり絵で食おうとする絵描きの大半が“貧乏絵描き”だと言うことになりそうだ。

齢のせいで話は大雑把になるが、この8月、画家の野見山暁二氏が先の大戦時に召集令状を受けて、父が出征兵士の息子を送る宴を設けてくれたその席上で、「死ぬのは嫌だ」とか叫んだことで、同席していた軍人が怒って軍刀を抜いたという話を読売新聞で読んだ。

 その野見山氏が、長野県上田市にある、学徒出陣で若き命を戦場に散らした画学生たちの作品を集めた無言館の設立に深くかかわり、画学生達の遺作を集めることに奔走された。無言館の収蔵作品は、野見山氏も言うように若い画学生の作品だから完成度は必ずしも高いとは言えないが、描き込まれている家族の肖像や身の回りの静物はみずみずしく、この若者たちがみんな戦場に命を散らしたかと思うと見る者をも“無言”にさせる。「死ぬのは嫌だ」と叫んだ野見山氏は生き延びて画家として大成したが、そうした幸運はそう多くない。

話は飛ぶが、五味川純平の友人だった理論社創業者の小宮山量平氏は、自伝小説「千曲川」4部作を残した。これは、急旋回した時代と戦争の本質を問い続け、80歳を超えて世に出したもの。執筆の動機について氏は、五味川純平の無念の思いを引き継ぎたかったと語るとともに、あの戦争は、戦場の地獄絵図を塗り込めるために無尽蔵の素材(マチエール)として動員された「青春」そのものを描くことにあったと語っている。

無言館の画学生たち、野見山氏のように死ぬのは嫌だと叫びたかったはずの画学生たちの青春が、若者たちの命が、無尽蔵の素材(マチエール)として地獄絵図を塗り込めるために使われた無念を思わずにはいられない。

戦後70年、戦争のない平和な日本で、たとえ金と縁のない“貧乏絵描き”でも自由な精神のスペースを確保し、自由な創造に取り組める絵描きは幸せだ。いま世界はますますきな臭さを増しているが、“貧乏絵描き”が増え、創造の“自由度”が増すことが、時代の“平和度”を測る尺度ではないかと思う。簡単に言えば“貧乏絵描き”が増えるほど世の中は平和だということである。

 (山勘 2015年9月15日)

「地球の未来 

 ウイキペデイアなどによれば、太陽の新しい惑星として地球が誕生したのは50億年前、恐竜の出現が数億年前、ゴリラから進歩した人類がピラミッドを作ったのは3千年前とされる。あまりに広範囲で現実離れした無縁の数字とも感じられるが、現在の世界人口が100億人、日本の年間予算が100兆円と数字を比べれば、地球は思ったより若く、人類が地球の覇者となったのはつい最近で、今後この星の舵を取る責任は重い。 

地球上の生物の誕生は、原始的なたんぱく質が、遺伝子と呼ばれる記憶構造を得たことに始まる。その結果、強い親の子は強く生き残る率が高く、弱い因子を引き継いだ種は弱い子を産み育てる率が高くなる。このような強者必勝が続けば簡単に決着がつくが、生き残りをかけて戦う競技場での評価方法は複雑多岐にわたる。力は強いが怪我をしやすい、女に人気がなく子孫を残せない、運がいい、寒さに弱いなど、勝敗はきわめて他項目で決まる。勝ち残るにはリスクへの備え、資源の配分、可能な限りの検討をしても、必勝法は得られない。モンテカルロ法と呼ばれる作戦があるが、極めて多数の乱数で場合と結果を統計的にシミュレーションし、評価点の高い作戦を選ぶ方法もある。 

人類が、現在、表面的にせよ大きな顔をして地球上の他の生物を支配していられるのは、高い組織戦闘能力と武器の開発、繁殖力(質と速さ)だといわれている。 

氷河期を地球の覇者として5000年間、なんとかに乗り越えた人類であるが、その鍵は各レベルでのリソースマネージメントであった。それでは、次の5000年の課題はなにか。

今、地球上ではリソースの総量は足りても、各地で不満が高まっている。戦争とテロ、年齢層間の不満と無駄、娯楽への逃避、問題は山積し地球規模でのピラミッドが求められている。人類の敵は人類のなかに生まれる。

(高幡童子 2015年9月17日)

「現実論」と「理想論」の対決  

 大混乱の中で安保関連法が可決した。いくつかの論点について再考してみたい。まず、最後まで野党が叫んだように、“安保論議は不足”だったのだろうか。これについて、安保法反対の朝日新聞が、9月17日付け一面に論説主幹大野博人氏の論稿「国会は民意をおそれよ」を載せた。その中で、『安倍晋三首相は「長い時間をかけ審議を行ってきた」という。両院を合わせて200時間を超える。たしかに長い。そのおかげで、議論は議会の外にも大きく広がった』と一定の評価を示した(示してしまった)。しかしこれが大方の見方ではないか。

 また“安保法は憲法違反か”。これも大きな論点だった。スジ論でいえば憲法改正をして堂々と安保法を考えるべきだ。しかし、それをやれば憲法改正は2年、3年、あるいは5年先か、それでも改正できない恐れもあり、緊迫する国際情勢に対処するために、政府は極端にいえばどこまで現行憲法の“拡大解釈”を許されるかを研究したということだ。

 関連して“解釈改憲は許されないか”という論点がある。これは憲法上、個別的自衛権は良しとしても集団的自衛権は許されるかどうかという問題である。極めて専門的な法解釈の問題であり、法の専門家と能力のある“一部”国会議員の研究と論議に侯つべき問題である。野党は無定見に国民参加を求めるが、誤解を恐れずにいえば、法律論争に一般国民の参加や理解を求めるのはムリがある。国会解釈を尊重すべきであろう。

 また“安保法は戦争を「抑止」するか「誘発」するか”という論点もあった。近隣の問題国家から見れば、戦争反対を叫んで何もしない日本より、日米連携を強めそれなりの防衛能力を強化する日本の方が、扱いにくく“手を出しにくい”相手になることは論をまたない。ただし戦闘エリアに近づく自衛隊が戦闘に巻き込まれて報復を招く恐れがないとは言えまい。そうした“想定事例”で政府を責め立てる野党の素人論法に少なからず国民はうんざりした。 最後に、今回の安保法を巡る大きな論点、というより私なりの見方でいえば「現実論」と「理想論」の対決がある。「現実論」派は現下の世界情勢、中国、北朝鮮など覇権国家の伸張、国際テロの拡大などを重視し、「理想論」派は、戦争反対、憲法重視である。両者が両者の主張を繰り返すだけだから議論が噛み合わない。大方の国民(「現実論」派も含めて)は平和を願い、戦争反対である。したがって戦争反対だから安保法反対というのは短絡的である。

 さらに関連して憲法改正についてみると、戦後における主要先進国の憲法改正は実に“リーズナブル”である。ドイツの59回をはじめフランス、カナダ、イタリア、中国、韓国、そしてアメリカの6回と続く。日本の0回は例をみない。わが国の場合は、平和憲法の象徴である「第9条」が崇高にして犯すべからざるものとして高く掲げられているからだ。

 だいたいが、法でメシを食う者にとって法の尊厳はなにを置いても守るべき価値である。時代がどう変わろうと立法の精神と法の条文は金科玉条として死守すべきものである。したがって、全員とは言わないが、憲法学者をはじめとする法学者、法曹界が安保関連法案に反対するのは当然である。法でメシを食ってきた元内閣法制局長官などが、退官して私人になってから安保法は憲法違反だなどと発言するのは変節であり潔くない。

 ものの本(実は「世界十五大哲学」PHP文庫)にこんなことが書かれている。意訳だが、明治時代のわが国では、「明治憲法」が発布されて、上からの立憲的な改革によって民権運動など下からの変革が押さえられた。(中略)ドイツ観念論哲学が「講壇哲学」の中心となり、国民から切り離され、象牙の塔の中で研究される「深遠なもの」に転化させられた、という。

 いま、あらかたの憲法学者が激変する世界情勢を一顧だにせず、アメリカの“お仕着せ”である日本国憲法を、昭和21年公布以来70年近く象牙の塔の中で研究し、“講壇憲法”にし、“深遠なもの”に転化してきたきらいがありはしないか。第9条を含めて、そろそろ憲法改正をまじめに考えるべき時がきているのではないか。

(山勘 2015年9月18日)