例会報告
第47回「ノホホンの会」報告


 2015年7月24日(金)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、高幡童子、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

 山勘さんが予後の大事を取って残念ながら不参加でしたが、次回はぜひ元気なお顔を見せてください。当日はこの時期特有の突然の大雨や落雷で交通手段に支障が出た方もいましたが、他の皆さんはほぼ定刻に集まりました。

 今回もバラエティ豊かなテーマで、食生活とくに魚の安全が脅かされているとか、今後が見えない日本の行方、健常者とそうでない人の感覚の違いなど、示唆に富んだ内容でした。それにしても、「風」を表現する日本語があんなにあるとは驚きでした。

 会後の暑気払いは、これまた料理良し、酒良しで大いに盛り上がりました。いつも洒落た店を紹介いただき、ありがとうございます。

 8月は夏休みとします。存分に英気を養い、9月の例会をお楽しみに。


(今月の書感)

 「日本人が知らない漁業の大問題」(ジョンレノ・ホツマ)/「風の名前」(恵比寿っさん)/「崩れゆく世界生き延びる知恵」(致智望)/「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(狸吉)/「沈みゆく大国アメリカ―逃げ切れ!日本の医療」(本屋学問)

(今月のネットエッセイ)

山勘さんのエッセイは、次回に紹介をお願いいたします。

(事務局)

 書 感

日本人が知らない漁業の大問題/佐野雅昭(新潮社 2015年3月発行)


著者は水産庁勤務を経て、現在鹿児島大学水産学部教授で専門は水産経済学です。


 帯表紙に、「マグロ?ウナギ?そんなの『危機』じゃない!魚食崩壊の深刻な実態」とあり、帯裏には、「日本の漁業、卸売業者がこのまま劣化していけば、未来の消費者は『食』の豊かさも、日本が誇る『食』の文化も失ってしまうでしょう。資源の管理も大切ですが、魚がいなくなるより前に、魚を食べる人がいなくなってしまいそうです。冗談ではなく、現実的な文化の危機だと思います」と書いています。


魚好きの小生にとって、毎日当たり前に食べている魚が、スーパーの魚売り場を見ても、種類が少なく単調になってきており、店によっては、見ただけで鮮度が違い、買う気も起らないことも気になっていました。普段、魚に関しての情報は断片的でしかなく、どういう内容なのかと取り上げてみました。


以下、気になった項目を列記して見ます。

2013年度水産白書によれば、沿岸漁業家の漁労所得は2012年には約204万円まで低下、生活保護レベルを下回るレベルとのことです。実質的には、副業や年金などで500万程度にはなると推測している。


若者が水産業には行かないので、後継者不足が深刻になっている。漁業の就業者は、24万人(2002年)→17万人(2012年)と減少、更に60歳以上が5割超えている現状である。


漁業への新規就業者数は全国全て合わせて2000人に達しない。このままでは、将来日本から漁業が消滅する覚悟が必要である。


日本から漁業者がいなくなって近海のサバやアジ、サンマなどが食べられなくなるとしたら冷凍輸入魚ばかり、魚文化の崩壊につながると著者は憂いています。


本質を見失った水産基本計画

消費者は鮮度を重視、美味しいものを食べたい。この要求を正面から取り上げず、加工化や衛生管理、規制緩和ばかりに目を向けている。水産物は手間のかかる多様で複雑なもの画一にはいかない。

問題になっている背景として、漁業権の理念が薄らいでいる。


無秩序な輸出拡大・大手水産会社が買い占めて輸出、逆に国内では原料不足から輸入品にシフト。儲からなくなれば廃業では、食料安全保障の観点から自給率を引き下げる輸出拡大は考え物。


企業を後押しする委員会は、食料の自給率を維持する考えはなく、EPA(経済連携協定)やTPPを進めて海外から安い食料を輸入すれば良いと主張している。


漁協のシステム(自主的管理機構)にもっと目を見開く必要あり。

それぞれの地域ごとに持続的な資源管理が全国的に実現されてきた。世界中から注目を集めているが、多くの日本人は知らない。


日本の魚は安全、生鮮水産物流通のモラルと流儀

原則的にその日のうちに漁獲されたそこにあるだけの魚を欲しい人が競い合いながら買う。供給量や価格を人間がコントロール出来ないものが前提。

流通業者の鮮度や品質を正しく評価する能力、すなわち「目利き」の力。専門的にならざるを得ない。


日本人には当たり前のことも、他国からは不思議。

卸売市場流通では日常的にサンプル検査が行われ、衛生的に基準を満たないものは排除、またどの業種・業態においても専門知識と的確なハンドリングのノウハウ、高いモラルとプライドを持った魚の専門家が水産物を扱い、刺身で食べることを当然の前提とした迅速な流通と適切な品温管理を行っている。彼らはまた、豊富な知識と柔軟な技能によってどんな魚でも的確に扱える。


世界中でここまで柔軟で高度な流通システムは他にない。再認識して大切にすべき。


魚食文化に逆行するファストフィッシュ

総務省の調査では、この10年間で生鮮魚介類の消費量は60代以上では減少していないが、50代以下では3割近く減少、20代世帯では4割、全体平均の半分程度で60代以上の高齢者世帯の4分の1以下。魚離れは外人並。


農林水産省の食料需給表で、2012年国民一人当たりの動物性たんぱく質は、鶏卵5.6g、牛乳・乳製品7.8g、畜肉15.1g、魚介類15.5g。食用水産物の自給率約6割、日本の畜産品(牛乳・卵含む)の自給率は約83%、その飼料の8割以上が輸入で実質的な自給率は16%程度。


養殖は、本来高級魚であったものが低価格を余儀なくされ大衆化され生産者の価格ジレンマが生じ、ブランド戦略も、一尾一尾の目利きが必要な水産物を、現実を無視して利己的なブランドを作ろうとしている。目先の利益が先走りしているように思える。


鮮度の良い天然の魚を適切な価格で食べたいと改めて思いました。


(ジョンレノ・ホツマ 2015年7月14日)

風の名前高橋順子・文 佐藤秀明・写真(小学館 本体2,500円)


高橋順子略歴 詩人 「歴程」同人。1944年千葉県生まれ。

東京大学仏文学科卒、出版社勤務を経て、法政大学日本文学科非常勤講師。

詩集「幸福な葉っぱ」、「時の雨」「高橋順子詩集」、評論「連句の楽しみ」「富小路禎子」、エッセイ集「けったいな連れ合い」「雨の名前」などがある。


佐藤秀明略歴  写真家 日本写真家協会会員 1943年新潟県生まれ。

日本大学芸術学部写真学科を卒業の後、フリーのカメラマン。北極、チベット、アフリカ、南洋諸島、など世界各地の人間とその生活・自然をテーマに多くの作品を発表している。

著書に「北極」「口笛と辺境」「秘境マルケサス諸島」「雨の名前」など多数。


春の風      (62)

夏の風      (58)

秋の風      (40)

冬の風      (46)

季知らずの風 (201)   ( )の数字は挙げられた名前を持つ風の数。


春:3〜5月

夏:6〜8月

秋:9〜11月

冬:12〜2月  いずれも太陽歴だが例外も一部にある。

風に名前があるという書名に魅かれて読んだ。


詩人である著者のエッセイや解説が随所にあるのだが、それは個人の感性次第。



なので、ここでは私が初めて知った風の名前を挙げて書感に替えさせていただきます。

数えてみたら、何と407通りもある。

日本人の感性の鋭さを物語っていて思わず嬉しくなった。紙面の制約(と言うより、面倒だからが正直なところ!)で表紙に掲出されていた風の名前のみ取り上げます。


芋嵐:里芋の葉を揺らしながら吹く強風

吹花擘柳(すいかはくりゅう):花をそっと吹き開かせ、また柳の芽を割き分けるようにそよぐ春の風

時津風:時節にふさわしい風。丁度良い時に吹く風。潮が満ちてくるころ吹く風

青嵐:初夏の青葉を翻し吹く風

風炎:ドイツ語Fornへの当て字、山から吹き降りてくる乾燥した暖かい風。

颪:おもに山地から吹き下ろす風

東尋坊:八十八夜のころの西寄りの暴風。土風の異称を持つ

霾風(ばいふう):黄土地帯で舞い上がった土や砂ぼこりを振らせながら吹く大風、霾る(つちふる)という春の季語もある

光風:うららかな春日和に爽やかに吹き寄せる風

雲雀東風:雲雀のなく頃の東風

海軟風:肌に心地よい風で海風と同義語

嶺渡(ねわたし):高峰から吹き下ろすかぜ

神立(かんだち):雷のこと。静岡県田方郡で、雷を伴う夏の疾風を言った。


読了して感じたのは、これだけ日本人の感性ある風の表現は、私が嗜んでいる句作に大いに使えるという印象。

日本の歴史と文化、多様性の素晴らしさに感動です。

なので、座右の書に加えたいところである。


(恵比寿っさん 2015年7月15日)

沈みゆく大国アメリカ―逃げ切れ!日本の医療/堤未果(集英社新書 2015年5月20日 本体740円)

「沈みゆく大国アメリカ」の続編。金融や保険、医療を中心とするアメリカの恐るべき国家解体ビジネスが、次はTPPで揺れる日本を標的にするという、まさに現代の恐怖話である。副題の“逃げ切れ!日本の医療”には、前書でアメリカの悲惨な医療現場を見てきた著者の、今もアメリカの後を追う日本にその轍を踏んでほしくないという切実な思いが込められている。


“あなたは盲腸手術に200万円払えますか? じわじわと日本に忍び寄る、見えない魔の手〜「いのち」と「老後」がマネーゲームの餌食になる”…。衝撃的な文句が帯に踊るが、本書を読んで綿密な取材に基づいた深刻な医療の実態を知るにつけ、日本の商業マスコミがいかにアメリカや日本の真実の姿を報道していないかを思い知らされる。


日本が世界に誇る「国民皆保険制度」は、保険証があれば全国どこの病院でも一定の窓口負担だけで診療を受けられ、とくに「高額医療制度」は負担の上限が決まっていて差額は保険者が払い戻すしくみで、介護も同じ。アメリカの医療関係者は「信じられない制度だ。医療費が高額で医療破産が絶えないアメリカでは考えられない」と驚嘆するという。


本書によれば、日本の保険制度は1922年に労働者保護のための「健康保険法」から始まり、1938年に貧しい農漁村を救うための「国民健康保険法」が成立したが、日中戦争がその優先順位を置き換え、兵士として戦地に送る農民の体力増強のために国策として掲げた「健兵健民」のスローガン、「皆兵」が「皆保」になったそうだ。さらに1958年には、会社員や公務員とその家族は健康保険組合や共済組合が運営する「健康保険」、それ以外の国民は市町村が運営する「国民健康保険」ができ、憲法25条に謳う「生存権」を保障する世界に誇る医療保険制度になった。


そんな魅力的な市場だから、1980年代のアメリカ・レーガン政権下で成長した“強欲資本主義”が虎視眈々と狙い始める。“規制緩和”、“構造改革”の外圧の下、日本は国鉄始め電電公社、専売公社、日本航空などの民営化、金融自由化、社会保障費削減などを推し進め、とくに1985年に中曽根・レーガン合意で「MOSS協議」(市場志向型分野別協議)が始まり、電気通信、医薬・医療機器、エレクトロニクス、林産物4分野に関する製造、輸入の承認・許可・価格設定について、今後はすべてアメリカとの事前協議が必要になった。


さらに「日米構造協議」「日米規制改革・競争政策イニシアティブ」などアメリカの対日戦略の裏で、アメリカの財界は医療分野に触手を伸ばし始める。日本の公的医療は1980年代から日米間で段階的に切り崩され、癌保険はすでにほとんどをアメリカ系保険会社が抑えている。さらに、アベノミクスが推進する「国家戦略特区」のおかげでそこに外資が参入できるしくみで、高速で高齢化する日本は海外の投資家や外資系製薬業界にとってまさに夢の国だそうで、薬の市場規模は10兆円、世界の1.6%の人口が世界の薬の40%を消費するともいわれている。この宝物のような日本の医療システムが、今危ないと本書は警告するのである。


老人医療と介護はかなり儲かる産業で、需要が拡大しても価格は下がらない。スタッフの削減、給与削減、入居者の回転率を上げることでさらに利益を上げられる。だから、アメリカの投資ファンドが経営する老人ホームは、人件費削減とサービス低下でクレームが多い。アメリカで老後を迎えるのは茨の道だと本書はいうが、それでもこの分野のコングロマリットや投資家はブラジルやインド、そして韓国、日本に触手を伸ばしている。


岩手医科大学の小川彰学長は2010年、日本の医薬品輸入額が2兆円であるのに対して輸出はその1/10以下だとそのあまりのアンバランスさを指摘し、同時にそれを伝えなかった日本政府とマスコミを厳しく批判した。30年にわたってアメリカが仕掛けた不平等政策によって、日本は海外の医薬品や医療機器を3〜4倍の価格で買わされ、技術立国の日本がずっと新薬や医療機器開発を政治的に押さえられてきた。実はこれが日本の医療費を押し上げている原因だという。アメリカは日本と違い政府が薬価の交渉権を持たないため、製薬会社は自社の薬に勝手に価格を付けられる。オバマケアが導入されてからも、薬価は値上がりを続けている。


日本のマスコミは「外国では承認されている最新薬が、日本では厚労省や日本医師会のような既得権益団体の抵抗で使えない」というが、アメリカでは新薬審査件数が多いほど規制当局に入る金額が増えるため、このしくみが新薬開発承認を早め危険な承認薬を増やしている。日本の承認速度はヨーロッパなみであるが、医療予算を討議する会議や新薬審議会に日本医師会のメンバーも医療従事者も入っていないそうだ。


さまざまな対日圧力でも医師会や厚労省などの抵抗で一向に進まない日本の医療市場開放にしびれを切らしたアメリカは、わずか4か国でのんびり進めていたTPPにいきなり加わるとすぐに主導権を握り、日本市場参入の新たな道を開く戦略を開始した。戦略特区が全国に広がり、日本全体で外資系企業が稼げるよう規制緩和が進んだところでTPPが締結、一度広げた規制は元に戻せないという「ラチェット条項」が規制緩和を永久に固定化する。アメリカの財界にとって何より都合が良いのは、TPPと国家戦略特区が双子の兄弟だということに日本国民がまったく気付いていないことだと本書はいう。

さらに、TPPより手強いTiSA(新サービス貿易協定)は、WTOなどで自由化できない公共サービスなどを自由化するアメリカが新たに仕掛ける国際協定だが、アメリカには「エクソン・フロリオ条項」があり、国家に危機的状況をもたらす外国企業は大統領権限で阻止できるという、実に自分勝手なルールまでつくっているそうだ。


1983年、当時の厚生省局長が『医療費亡国論』を発表、過剰な医師数が医療費を増やして2010年には68兆円に達すると述べた。このかなりいい加減な予測に愚かなマスコミはすぐに飛び付き、医療費を減らせ、医師数を減らせと大合唱した結果、2012年末現在で日本の医師数は30万人、OECD諸国で人口1,000人あたりの医師数が最も少なくなってしまい、とくに救急医はフランスやアメリカの1/10で、慢性的な過酷勤務状態にあると本書は書いている。


また、ある経済学者の説を引用して財政赤字1,000兆円のトリックを示している。つまり、諸外国では財政赤字を算出する場合、国の資産から借金分を引くが、日本の財務省は資産部分を無視して借金の数字だけを見せるので、諸外国と同じ方法で計算すると256兆円だそうだ。だから、消費増税や医療費削減、患者負担部分増額の根拠がかなり怪しくなる。マスコミは毎年1兆円ずつ医療費が上がるというが、高齢化社会の自然増として諸外国と変わらない数字であるという。


実際は増税対策だった「オバマケア」が成立したのは、アメリカ国民が馬鹿で内容を理解できなかったからとMITの教授がいったそうである。アメリカも日本も都合の悪い情報は国民に教えないのが原則で、オバマケア法を推進したハーバード大学の教授陣も、自分たちの職員用医療保険が値上がりしたのを知って初めてオバマケアの欠陥に気が付いたというオチまである。


本書はいう。今の日本は国民皆保険制度のような尊いものを守らず、外国に安く売り飛ばす間違った方向に向かっている。権力欲や金銭欲のために国を誤った方向に導こうとする連中ばかりが政策決定の中枢にいる。でも、もっと怖いのは一般国民の無知と無関心だと。どれだけ他国が羨む制度を持っていても、その価値に気付かなければ簡単に取られてしまう。国民にとっても政治家にとっても、これからがまさに正念場である。


(本屋学問 2015年7月21日)


目の見えない人は世界をどう見ているのか/伊藤亜紗著(光文社新書2015年 本体760円)


著者は東工大リベラルアーツセンターで美学・現代アートを専門とする准教授。当初生物学を学んだが、途中から文系に転じ、東大大学院で美学芸術学の博士課程単位を取得、その後学位を得た多才な人。


本書の構成は、

序章:見えない世界を見る方法

第1章:空間−見える人は二次元、見えない人は三次元?

第2章:感覚−読む手、眺める耳

第3章:運動−見えない人の体の使い方

第4章:言葉−他人の目で見る

第5章:ユーモア−生き抜くための武器、 の6部からなる。


まず序章では著者が生物学者を目指した動機、またそれから今の専門に転じた経緯を述べている。中学生の頃、本川東工大教授の「ゾウの時間、ネズミの時間」を国語の先生に勧められて読み、「時間感覚は生きもののサイズによって変わる。時計のような絶対的な時間は存在せず、個々の生きもののサイズに対応した主観的な時間があるのみである」という一節に打たれた!そしてさまざまな生きものの時間感覚を想像する。つまり想像の世界で変身してみたいと思い立った。そして視覚障害者(最近は聴覚障害者も)の世界を内側から見る研究を始めた。1930年代に環世界という新しい概念を提示したユクスキルも、この道の先達として紹介している。(5月の書感に寄稿済み)


何故視覚障害者かというと、「自分と異なる体を持った存在への想像力を啓発する」本川生物学を、美学の手法を使って実践するためである。美学と生物学がクロスする接点は身体であり、美学は人間、生物学は人間以外の身体と周りの環境との関わりについて探求してきた。この後著者の美学論が続くが長くなるので省略する。本書の著者は先達の業績やこの学問の解説にとどまらず、自ら多くの視覚障害とインタビューを重ね、全盲体験プログラムに参加し、目の見えない世界を内側から描いた論文・著書を執筆している。


以下、第1章から第5章まで、視覚障害者の環境と感覚をさまざまな角度から描写し、彼等は晴眼者に何ら劣る者ではないと多くの実例を引いて説いている。視覚の代わりに聴覚・触覚・嗅覚など別のセンサーを発達させ、周りの世界を認識している。それどころか夜間停電にでもなれば健常者より有利な立場となる。また視点が固定されないので、普通の人が見落としがちな盲点が無い。

例えば大阪万博のシンボル、太陽の塔に5面の顔が描かれていたことを、何人が知っていただろうか?


 視覚障害者は色彩やファッションの感覚があり、健常者に負けぬユーモアのセンスもある。自らの不自由さもネタとして笑い飛ばしてしまう。スパゲティにミートソース味のソースが欲しいとき、たまたま開封したレトルトパックがその味ならば「当たり」と喜び、クリーム味だったら「外れ」だがこれはこれでいいか、と納得する。思うようにコントロールできぬことは、そのまま遊びに変えてしまえばよいのだ。


 本書を読み終えて、歳をとると「環世界が狭くなるのではないか?」と心配になった。若いときは講演会や展覧会に行くと、多くの情報が即座に頭に入り、後々思い出すことも出来たのに、昨今は講演の記憶どころか、聞き漏らしや意味不明が続き、聴講途中で退席したくなることさえある。先日ITセキュリティのセミナーに参加したところ、講演はアルファベット略号が連続し、私のような昔のパソコンマニアには理解不能!高齢者には不向きな環世界に飛び込んでしまったのだ。別の例では家内と観劇に行き、帰宅後感想を話し合うと、それぞれ異なる場面を見ていたことに気付いた。一人が「あの場面がよかった」と言うのに、相手は「そんな場面どこにあった?」と訊くのだから興ざめ!これは夫婦揃って認知症の前兆か?


何はともあれ、この地球上には時空を共有する無数の環世界が共存し、自分の住む世界が唯一無二の存在ではないと知った。機会があれば異なる世界を内側から眺めてみたいが、犬のような嗅覚も鷹のような視力も無い我々には、機能の一部が不自由な仲間の環世界を想像するのが精一杯であろう。


それで思い出したのが、中年時代に参加した高齢者疑似体験プログラム。50円の清涼飲料水を自動販売機から買う場面で、手袋をはめた手でポケットの小銭をつまみ出し、5円玉と50円玉を見分けて投入するまでの時間の掛かること。後ろで待つ人がいたら怒ったに違いない。高齢者の一人となった現在、かつての疑似体験は今や現実となったが、疑似体験できなかったのは頭の回転速度である。歳と共に環世界が狭まるのは、情報を処理可能な範囲に収める自然の摂理か。


(狸吉 2015年7月21日)


追記

 この会の翌日、朝早くラジオのスイッチを入れたら、全盲疑似体験プログラムに参加した人が話していた。途中からなので始めからの経緯は分からぬが、この人は登山が趣味で、体験指導のお礼に全盲者二三人を日帰りハイキングに誘ったところ何と健常者と同じコースタイムで歩いた!それならばと参加人数を増やし(晴眼者は先頭の自分のみ)、山小屋泊まりを含む2日間の登山に連れて行ったところ、「ここはバリアフリーになっていないな」などと笑いながら歩き、これも健常者と同じ標準タイム!頂上に着くや周囲を見渡し、「あちらが低い。こちらが高い。あのあたりで緑が薄くなっている」と言い合い、見るとその通りなので驚いた。

「目の見えない人は見える人より能力が劣る存在ではない」と結論付けていた。

 エッセイ 
今月は投稿なし