例会報告
第42回「ノホホンの会」報告

2015年2月18日(水)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:致智望、山勘、高幡童子、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

心配された雪も天気予報が良いほうに外れてくれ、雨も大したことはなくて、所用の狸吉さん以外、皆さん時間通りに集合しました。今回も資本主義や経済に関するテー マが多く、とくにトマ・ピケと「21世紀の資本」の話題で持ち切りでした。これから の私たちの暮らしは一体どうなるのか、社会格差はさらに拡大するのか、教育はこれ でいいのか、議論は沸きました。未来に禍根を残さないよう、できるだけ賢い選挙民 になって、少しでもましな政治体制をつくるようにしなければ。それにしても、6000 円の本が10万部も売れるのも驚きです。

 血管の状態が人間の寿命と関係があるという話も興味深いものでした。薬漬けにならないためにも、普段の食生活が大事という当たり前の結論にはなりましたが…。


(今月の書感)

「資本主義の終焉と歴史の危機」(高幡童子)/「血管が若がえれば健康寿命はのびる」(致智望)/「古代の朱」(ジョンレノ・ホツマ)/「中国の大問題」(恵比寿っさん)/「21世紀の資本主義を読み解く」(山勘)


(今月のネットエッセイ)

「トマ・ピケ」(致智望)/「物の見方 逆さまの地図」(ジョンレノ・ホツマ)/「結果責任」(本屋学問)/「ホツマツタエの存在」(恵比寿っさん)/「富裕層と貧困層の激突が始まる?」(山勘)


(事務局)
 書 感

資本主義の終焉と歴史の危機/水野和夫(集英社新書 0732)


1953年愛知県生まれ。日大国際関係学部教授、経済学博士。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官 国家戦略室審議官等を歴任


筆者は「資本主義の死期が近づいているのではないか」と問題提起し、その理由と影響を解説している。毎日のように報じられる経済の動きは、我々の生活に大きな影響を持つが、専門用語で述べられ、一般庶民にとっては、意味を理解し、よしあしの論議に加わるのも容易でない。


以下、五章に書きわけられた本書を興味のおもむくまま読み進めば、日ごろ疑問としていたことのいくつかについて理解が深まると思う。


はじめに 資本主義が死ぬとき

第一章 資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ

第二章 新興国の近代化がもたらすパラドックス

第三章 日本の未来をつくる脱成長モデル

第四章 西欧の終焉

第五章 資本主義はいかにして終わるのか

おわりに 豊かさを取り戻すために


経済学的に見れば、近代と成長は同義語

資本主義は成長をもっとも効果的におこなうシステム 

成長の環境や基盤は近代国家が整えていった

成長の基盤を提供できなくなった時、資本主義は終焉する

利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、格差や貧困という形をとって弱者に集中する→低金利が10年続くことで利子率革命

現代の弱者は圧倒的多数の中間層

利子率=金利=資本利潤率=資本を投資して利益が還元される(国家が用意する)環境

過去の問題点=イタリアの葡萄畑が山のてっぺんまで、スペインが南米で金銀鉱山開発

マネーがダブつき、投資先がない 

現代の問題点=ウオッシュレットが全てのトイレットに行き渡った

       市場が飽和した、安い原料、安い労働力が植民地から得られない

       現物の飽和→情報市場の開拓→いずれ飽和へ

       再投資の回転スピード

アメリカの資本主義延命策 電子金融空間の創造

       新自由主義 政府より市場のほうが正しい資本配分

       中間層のための成長の放棄

筆者がイメージする定常化社会、ゼロ成長社会、資本の蓄積と増殖のための「強欲な」資本主義を手放すことによって、人々の豊かさを取り戻すプロセス。


(高幡童子 2015年2月5日)

 

血管が若がえれば健康寿命はのびる/石井 光(幻冬舎 1200円)


著者の石井光先生は、先般、本欄にて書感を述べた「医者の嘘」の著者であります。「医者の嘘」には、私は大きな衝撃を受け、病に対する処し方に考えさせられ、その著者の最新書を読まない訳にはゆきませんでした。本書は、前作の「医者の嘘」の中にも触れていたコラーゲンに付いて、全ページを割いて語ったものであります。


最近、健康ブームといわれ、特に「ドロドロ血」、「サラサラ血」をテーマにした企画や特集が組まれ、血液に付いて注目されている。それは、間違いではないが血液の通り道である血管を軽視し過ぎていると言う。サラサラ血にしたいと思う血液以上に、血管に付いてこそ注意すべきと言う。


血管は、全身全ての細胞の生命に関わる重要な器官で、人体は60兆個もの細胞で構成され、そのすべてが酸素や栄養素などを取り込み、老廃物を排出する、その運搬を担う血液の通り道であり、その活動を大きく左右する器官が血管であり、生命の危機に関わる病気の多くが、血管のトラブルが原因と考えられる、血管が劣化しトラブルが起こると、血液の循環がうまく行かなくなり、代謝が損なわれ、身体の変調だけでなく、脳卒中や心疾患をひきおこす原因と著者は言う。


「老化」と言う現象は、避けられない宿命のようなものだと考えられがちで、血管の劣化を修復する治療は、今までに無かったと言う。しかし、血管の老化予防は可能で、簡単なメンテナンスと高品質コラーゲンの服用で、老化による色々な病気を未然に防ぐことが出来ると言う。


世間には、コラーゲン・サプリが沢山売られているが、有名なメーカーのものに限って調べてみると、先生の言う血管に良いコラーゲンは無かったとのこと、そこで先生は高品質コラーゲンを生成し、この服用によって病気予防に有用なものとして実績がある、しかも、予防以上に医療効果としての効果が認められ、循環器以外でも骨密度の上昇、骨粗鬆症、関節痛、アトピー性皮膚炎、その他に有効である事が判って、その臨床データが認められて特許が成立していると言う。


これらの事が、こと細かく記されており、なるほどと思う次第であったが、この高品質コラーゲン・サプリが何処で販売されているのかは、本書の中には記されていない。私が今患っている脊柱管狭窄症への具体的な例は述べられていないが、本書を読むことによって、明らかに効果があると理解したので、その購入方法が知らされないのは残念である。


石井先生が院長を務める新日本橋石井クリニックにて診察を受けると買う事が出来るのかも知れない。それは、数多くの臨床例が本書に示されているから、理解に難くない。


(致智望 2015年2月6日)

古代の朱/松田壽男(筑摩書房 2005年1月発行)


著者は1903〜82 東洋史家、独自の歴史地理学方法を駆逐した内陸アジア史、東西交渉史研究の第一人者であり、本書は1987年「松田壽男著作集」第6巻「人間と風土」からの抜粋とあります。


本書を数年前に読んだことがあり、その中で奈良の大仏を建立するとき、金と同時に水銀を必要としていたことを思い出ました。

金の原鉱石といっても混じり物が大半、その精錬に水銀が使われ、金アマルガム法で本体の銅にメッキされていたということです。

工程は水銀5に対し錬金(こながね)1の割合でアマルガムを作りこれを仏体の表面に塗る。その後で、炭火で水銀を蒸発させてしまうと、純金が銅の肌に食い込むように付着する。とあります。

大仏建立に、黄金があっても、もし水銀がなければ、金メッキが施された仏身はできなかったことになります。



みちのくの水銀文化についても触れられており、平泉地方は古代の水銀産地でもあった。古い陸奥の産金とも関連を持つ。金の原鉱石を破砕し、粉末にして水銀を加えれば、水銀は金だけを吸い取ってアマルガムという方法で黄金の精錬をしていた。


「みちのくの黄金文化」は水銀文化とも言えることを認識し、水銀が金と切っても切れない関係であったことを新たにしました。


砂金と朱砂とはそれぞれきれいな金色と赤色で、色合いの対比は見事なものになっている。

朱砂は辰砂(しんしゃ)とか丹砂(たんしゃ)とか書かれ、水銀と硫黄との化合物(HgS)であって、じつに美しい赤色をかもしだしている。元々は、朱は純粋な赤色。アカ色の総称のことである。

殷の甲骨文字で「朱」の字体は「牛」の真ん中に一本の横棒を加えた形、すなわち牛を胴切りにした形で、切った時に吹き出す血の色でアカという色を示している。

血田(ちだ)、血原などという「ち」と言う字のついた地名は水銀産地で、母岩がまっ赤に野を染めて朱砂が露頭していたところでもあった。以前はこの地名を人間が殺し合って血が流れた所と捉えていたのは間違いであったことに気が付きました。

その他にも、日本のあちこちに水銀の鉱山があったことを知り、ニウ・ニフ 丹生 壬生 仁宇などは、古代の朱(水銀鉱山)の産地であることも再確認いたしました。


古代のアカについて


原始日本人が使ったアカ色は二種類。

一は水銀系のアカ、硫化水銀(HgS) 純粋のアカ色

一は鉄系のアカ、酸化第二鉄(Fe2O3) 俗にベンガラといいやや黒ずんで紫色に近い


後(天平時代以降)に鉛系のアカ、四酸化鉛(Pb3O4) 一般に鉛丹(黄丹)

赤と黄色の中間色 俗にミカン色

この鉛丹が朱の代用品になってしまい、朱に対する日本人の感覚が変わってしまった。

朱と言えば黄色味の強い赤色、つまり鉛丹色とする観念はそこから出ている。


私自身、朱(朱色)と言えば黄色がかった赤だと思っていました。


さらに、水銀の原鉱石である朱砂の利用法として、鏡を明るくすること、すなわち、青銅鏡を朱砂で磨いて鏡面を光らせることに使われていたことも知りました。この用途からも非常に重要な金属であったことが窺えます。


本書は私のホツマツタヱの解読に目から鱗が落ちた一冊でした。

古代の朱 ホツマ解読 うろこ落ち


奈良の大仏に使った水銀も、江戸時代、伊勢白粉(おしろい)も伊勢の水銀を原料としていることから、昔から伊勢が水銀の産地であったことが理解できます。

本書により、水銀も金と同様重要な宝物(山の宝・やまた)であったことがわかり、謎とされていた邪馬台国の候補として伊勢が最後に浮かび上がってきました。


(ジョンレノ・ホツマ 2015年2月11日)

中国の大問題/丹羽宇一郎(PHP新書 本体800円 2014年6月27日第1版1刷発行)


著者プロフィール  1939年愛知県生まれ  前中華人民共和国駐箚特命人権大使

名古屋大学法学部を卒業後、伊藤忠商事に入社。98年に社長に就任すると、99年には≒4000億円の不良債権を一括処理しながら翌年度の決算で同社史上最高益(当時)を計上し、世間を瞠目させた。04年に会長に就任。

内閣府経済財政諮問会議議員、日本郵政取締役、WFP協会会長などを歴任ののち10年6月に民間出身では初の中国大使に就任。12年6月に退任後もその歯に衣着せぬ発言は賛否両論を巻き起こす。

現在早稲田大学特命教授、伊藤忠商事名誉理事。

主な著書に「人は仕事で磨かれる」、「若者のための仕事論」「リーダーのための仕事論」「北京烈日」など。


目次

はじめに  驕る中国に目を凝らせ

第一章  14億人と言う大問題

第二章  経済と言う大問題

第三章  地方と言う大問題

第四章  少数民族と言う大問題

第五章  日中関係と言う大問題

第六章  安全保障と言う大問題

終 章  日本と言う大問題(これは中国には関係ないことだ)

おわりに  十年後に死んでいるかもしれない人間のメッセージ

  巻末資料  周恩来宛石橋書簡(1959.6.4)

          日中共同声明(1972.9.29)

          日中平和友好条約(1978.8.12)

          河野談話(1993.8.4)

          村上談話(1995.8.15)

          日中友好パートナーシップの構築に関する共同宣言(1998.11.26)

          抗日戦争記念館訪問の小泉発言(2001.10.8)

          小泉談話(2005.8.15)   

          戦略的互恵間関係包括推進共同声明(2008.5.7)


中国を決して侮ってはいけないし、かといって、過剰にひるむ必要もない。ただ、中国を知れば知るほど、この巨大市場を独り占めにさせてはいけないと実感する。日本にとって中国市場の開拓はまだまだ十分に可能であり、中国も日本の技術や助けがなければ大きな困難に直面するだろう。そして日本のためにこそ、中国と互恵関係を築いて行くことが必要だ。(まえがきより)

 この考えに立っている私は、丹羽さんがどのような論点を持つのか興味を持った。


各章で論じられていることは目新しいことではないが、すべてを単純に明快に論じているのは商社マンの為せる技のように思う。


私が特に興味を持ったのは2点。


1点目は私の持論に近いので、我が意を得たり!

中国共産党の独裁の根拠(これを正当性と言う言葉で表現している)

 1つは、多くの問題を抱えながらも社会を経済的に立て直したこと。毛沢東の大躍進政策によって何千万人ともいわれる餓死者を出したが、ケ小平は改革開放政策で今や先進国の仲間入りをしている。

もう1つは、抗日戦争に勝ったことである。共産党(八路)軍が日本に勝つことにより、国民は幸せになれた。

だから、このことを共産党を信じなさい。逆に言えば、国民の反日感情は自らの正当性を訴えるのに必要だったということである。(このことを脳裏においておくと中国の政治が容易に理解できると思います)

だから、8800万人の党員が14億人を支配してきた(し、これからも支配する)。

(しかし、実はこれらに対する国民の意識が弱まっていて、共産党は躍起になっている)


2点目は「おわりに」の一文。

日本の人口は減っていく。かつて日本経済が世界をリードした時代、資源のない日本が持っている資源は人材だった。その人材が優れた技術と製品を生み出し、国力を支えてきた。日本が唯一出来るのは、世界のどこの国民よりも信頼できる国民であること、世界に対して誇れるものを作ることだ。それは今も昔も変わらない。このことは政治や外交のレベルでも同様だ。


日本はどの国と戦っても国民のためにならない。最も世界の平和を望まなければならない国なのだ。

このことは、これからの日本をデザインするときに肝に銘じなければならないことである。


(恵比寿っさん 2015年2月13日)

21世紀の資本主義を読み解く/橘木俊詔(宝島社刊 本体1,400円)


 本書のオビに「ピケティの処方箋で日本は救えるか」とある。ピケティは今「格差」を論じて世界的な大ベストセラーになっている「21世紀の資本」の著者、仏経済学者トマ・ピケティだが、本書の著者も「格差社会 岩波書店」などで早くから「格差」を論じてきた。


 本書の第1章では、経済学の歴史的な流れを概観する。資本主義は、イギリスにおける18世紀後半の産業革命からはじまった。やがて資本家の力が強まり労働者の賃金が低下傾向を示すようになり、資本主義に対抗する社会主義、共産主義が登場した。その経緯を主要な経済学者、ケネー、スミス、リカード、ワルラス、マーシャル、マルクスなどの業績でつづる。


第2章では、ピケティの「21世紀の資本」を引きながら、いま資本主義に何が起きているか」を考察する。ピケティの仕事は、資本ないし富はどのようにして蓄積されていくか、ということについて過去200年余の関係データを分析したことであり、そこから得られたピケティ理論のポイントは、国民所得に占める資本(資本所有者の所得)が近年ますます大きくなり、貧富の差がますます開いてきている、ということを立証したことである。


著者はこれを「富・資本からみて鮮明な格差」を解析していると評価する一方で、これまでの一般的な格差論と異なる分析に注目する。たとえば「ジニ係数」を用いた国民の所得分配や、国民に占める貧困者(貧困率)の実態分析による格差論を採っていない点を指摘する。

すなわちピケティは、富裕層の動向のほうが格差の実態をより鮮明にするとして、資本も富も持たず、富と実体経済の分析に関係のない貧困層に関心を示していない。著者は、「資本」を超えて「格差」を問題にするなら貧困率を無視すべきではないとする。


第3章では、わが国における貧困者の実態と経済に影を落とす教育格差の問題を取り上げる。貧困には、食べていけない「貧困ライン」以下の「絶対的貧困」と、国民の平均所得に比べて大幅に所得の少ない「相対的貧困」がある。


まず「絶対的貧困」で生活保護受給者数は2001年の110万人から13年は220万人規模に、「相対的貧困」では平均所得の半分以下の所得層は1980年代の11.9%から2000年には16.1%へと悪化、OECDの主要先進国中悪い方で過去の第5位から第2位となった。


こうした貧困層の大幅拡大に大きな影響を及ぼすものとして著者は教育格差を重視する。親の年収に応じて子供の学力に差ができ、大学進学率が上昇し、就職格差が拡大する実態を考察し、教育は「公共財」であるといい財政投資の拡大と雇用格差の是正策を求める。


第4章では、「低成長下の『幸せ』とは何か」として著者の持論を展開する。現下のアベノミクスに強く反論し、見かけの経済成長よりも実体経済を潤す策、需要や雇用を増やす新産業の育成や規制緩和に力を入れ、過去においてミルが論じたゼロ成長の「定常状態」をも肯定し、「幸福度」を高めよという。効率性と公平性はトレードオフではなく、日本においては機会の均等や税制などで両立できる。いまこそ日本人にとっての「豊かさ」が問われると主張する。

誤解を恐れずいえば、著者の主論はゼロ成長時代の幸福論である。


(山勘 2015年2月16日)

 エッセイ 

トマ・ピケ


フランスの経済学者トマ・ピケッティ氏の「21世紀の資本」と言う書がバカ売れしているそうだ。定価5940円で728ページ、厚さ4センチ、と言う本格的経済書であり本書が一日に何十冊も都心の書籍店で売れると言うから驚きである。


私は読んでいないので、書籍の内容について確信は持てないが、氏の公演会録の縮小版などが公開されており、氏の主張するところは大方理解出来ている積りである。それ以上勉強する気は今のところ無いから本書を買うつもりはない。


本書には、資本主義の矛盾が記され、「不平等社会」「格差社会」がテーマとなっており、資本主義の崩壊を論じているところに、私自身も常々同じ危惧を抱いているから、本書を読みたくなるビジネスマンの心理が理解出来る。


先般、金融関係の人と話していて驚いた、新年の「と」或る専門家用のレクチャーの席で日銀黒田さんが、「年間2%の物価上昇によって、5年で10数%、10年で30%もの物価上昇で国の借金は30%減額するのだから頑張ってくれ」と口を滑らしたと言う。これは、既成事実として承知している事であるが、禁句である事は承知のはず。一般庶民が聴いたらやっぱりそうかと大騒ぎになるであろう。この事が、紙幣経済の実態であり、我々庶民には理解し難く気持ちの悪いことだ、金融専門家たちは、1929年の大恐慌を避ける手段で、EUの経済運営者達が最近やっと理解し始めたとも言う事を聴くに及んで、私には益々解らなくなる。と言うのが、この本の売れる理由としてあるのかも知れない。


本書に付いての識者の話として、本格的な学問書に関わらず、大変読みやすく経済統計なども基礎から説明され、歴史的な描写や小説からの引用も多く、その理解には専門的な知識は必要ないと言う。特に、「初めに」に本書のエキスが詰まっていて、それを読めば充分と言うから、「買ってみるか」と思うが、5940円は安く無い。


(致智望 2015年2月6日)

物の見方 逆さまの地図


先月、「ノホホンの会」で、韓国に関連した二冊、「悲しい歴史の国の韓国人」と「韓国人による沈韓論」が紹介されました。その時、思い起こしたのは天地が逆になった地図です。この地図は、2006年に読んだとき、気になっていた「日本海文明交流圏」という本からのものです。


この地図では、韓国と言うより昔の高句麗付近・韓国半島の東側(日本海側)から見ると、上に向かって太平洋を妨げている日本列島が覆いかぶさっているような錯覚を得ます。


この南北逆転の地図が頭の隅に入っていて、思うように行かないジレンマを持つようになったとき、彼らの頭のどこかで日本列島は邪魔だ、目の上のたんこぶのように思えてきても不思議ではないと思った次第です。


物の見方には、自分には想像もできない裏表があることを改めて認識しました。


(ジョンレノ・ホツマ 2015年2月11日)

結果責任


社会基盤を整備するときに、1000年に一度あるかないかの大地震や大津波を想定することが理論上、経済上現実的かどうかは実に難しい問題である。だから、2011年3月の東日本大震災で東京電力福島第 1原子力発電所の原子炉が電源喪失によってメルトダウンを起こしたとき、多くの人たちが「想定外」という言葉を口にした。


今回の原発事故について政府の事故調査・検証委員会が関係者から聴取した調書が公開されたが、それによると2009年頃に地震津波の専門家が、貞観11(869)年に起こった東北大地震の津波に言及して、同規模以上の津波が来るかもしれないと指摘していたそうだ。そこで2010年、当時の原子力安全・保安院の耐震安全審査室長が、原子力安全委員会でそれについて検討することを上司に進言する。しかし、上司の安全審査課長は「保安院と安全委員会上層部は手を握っているのだから、よけいなことはいうな」といったという。


当時、福島第1原子力発電所3号機にMOX燃料を使う「プルサーマル」計画が進行中で、その課長は資源エネルギー庁でプルサーマル担当だったこともあり、室長は調書で「3号機のプルサーマル稼働を急ぐために、課長が原子力安全委員会に諮らなかったのではないか」と証言している。3号機はその後水素爆発を起こして、プルサーマルどころか今後の廃炉処理作業が最も困難な1基になったことは周知のことである。


室長は2011年3月にも東京電力の担当者に津波対策の必要性を伝えるが、東電側は2012年秋の土木学会の評価見直しを待ってからと回答した。室長がそれでは遅いと訴えた4日後、あの東日本大震災が発生する。ドラマを地でいくまさに “愚者は経験に学ぶ”結果になったが、事態はあまりにも重大かつ深刻で、周囲への立入りはもちろん、一部住民たちの帰宅は永久に叶わなくなった。帰るべき故郷が奪われてしまったのである。


以前も安全対策の提言に対して保安院長の“寝た子を起こす”発言が話題になったが、今になって経産省や東電など当時の関係者の多くは、この調書が出た後も口を揃えて自分たちの言動について「記憶にない」といっているそうだ。よほど思い出したくないのか、それとも本当に頭が悪いのか、いずれにしてもこんな無責任な人たちに日本の原子力行政や運営を任せたこと、そして本当の原子力の専門家がいなかったことが今回の悲劇であり、取り返しのつかない原子炉災害を招いた一因かもしれない。


福島原発告訴団が、彼らを含む東京電力や原子力安全・保安院、原子力安全委員会の当時の担当者を告発したが、先の同じような告訴では東電会長などが不起訴処分になったことで、検察審議会が再び起訴相当とした。重大な結果に対する当事者たちのあまりにも希薄な責任意識、自戒や反省の言葉もない現状を考えると、告訴は止むを得ないことなのだろう。

日本原子力発電東海第2発電所の場合は、2004年のスマトラ沖地震から国土交通省と茨城県が想定される津波の最大高さを見直し、日本原電に要請して2009年から始まった防潮堤の高さを4.2mから6.1mに引き上げる工事が完了する直前に、大地震の津波が発電所を襲った。しかし、高さ5.4mに達した津波も防潮堤を乗り越えることはなく、冷却電源は辛うじて維持された。東電とは多少事情が違うにせよ、これまた何ともドラマチックなエピソードではある。


災害対策費は設備投資の一環とはいえ、いつ来るかわからない大津波や大地震にどれだけ具体的な対応と投資をすればよいのか、企業の経営陣はもちろん管轄官庁にとっても大いに悩ましい問題である。しかし、結果的にはこれから何十年も続く廃炉処理作業に、膨大かつ無駄な税金を投入し続けなければならなくなった。おそらくその費用は、津波対策費の何百倍、何千倍にもなるはずである。


1000年に一度の大災害の予言が怪しげな占い師とかではなく、れっきとした地震専門家の指摘だっただけに、少しでも危機意識を持った当事者がいて何とか対応できなかったのかという思いは残る。この際、彼らが不明を恥じて巡礼の旅に出るのもいいが、それよりもこれから日本や世界で頻発するであろう原子炉事故に少しでも役立てられるよう、今後の廃炉作業のなかで彼らが率先してその対策技術を確立していくこと、それがせめてもの償いであり、結果責任でもあるような気がする。


(本屋学問 2015年2月12日)

ホツマツタエの存在


いつもジョンレノホツマさんから興味あるエッセイを聞かせていただいていてロマンを掻き立てられていますが、司馬遼太郎のエッセイ集「以下、無用のことながら」を読んでいて、その傍証であるような記述に出会ったのでその報告です。

「日韓断想」から一部を引用させていただきます。


はるかな古代、シベリアが暖かかった時期がある。ここで、紀元前1500年から前200年ごろ、農業と牧畜で暮らしている人々がいて、高い青銅冶金の文化も持っていた。中国とは別個と考えていい文化である。シベリアの風土が、モンゴロイドと呼ばれる私どもの顔つきをつくった。紀元前数百年に西方から遊牧という便利な暮らし方が入ってきて、それに参加する人びとは、遊牧の適地であるモンゴル高原などにのぼって、中国古代史で言うところの匈奴となり、農業と決別した。


「モンゴロイドの南下運動」という、古代世界の一現象を表現する言葉があるが、シベリアの人々の一派は、現在の中国東北地方に南下し、現在の遼寧省の地下に独自の青銅器文化を遺した。ついで朝鮮半島に南下した。その頃の日本列島には、南方的な母音の多い言葉を話す人々が住んでいたが、やがてウラル・アルタイ語族と稲作をもつ人たちが南下して倭人を形成した。稲作は、揚子江下流からも、人間とともにやってきた。半島だった北九州にそれらが混在するうちに日本語が形成される。紀元前500年から前300年くらいのころだったろうか。


司馬が何の根拠をもってこのような表現をしたか興味津々ですが、彼は大阪外国語学校(今の大阪大学外国語学部)でモンゴル語、韓国語、中国語を専攻していたので、この分野の記述には説得力があるし、自説を主張するときにもいつも謙虚な司馬の言説にはそれなりの根拠があると思い、そこからホツマツタエの実在を夢見た次第です。


前にも言いましたが、古事記が編纂されたその時代(8世紀中ごろ)の前後の土器片に1文字でもホツマツタエ語が見つかることを願っています。


(恵比寿っさん 2015年2月16日)

 

富裕層と貧困層の激突が始まる?


「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」とはよく知られた啄木の一首だが、こういう“身を粉にする”ような働き方をしていたのでは一生金持ちになれないのが資本主義の世の中だ。ただし啄木に限っていえば友人知人に無心したカネで悪所通いをしたりする“生活破綻者”でもあったからあまり褒められた働き者ではない。


「働かざる者食うべからず」は聖書から出た教えでレーニン、スターリンに応用された共産主義のテーゼだったが、資本主義の国では、いくら贅沢な暮しをしても資産運用で得られる“利得”が生活費を上回る金持ちは“不労所得”で食える。食えるどころか富が“自己増殖”して増え続ける。


いま、フランスの経済学者トマ・ピケティの格差問題を論じた著書「21世紀の資本」が世界的なベストセラーとなっている。本書のポイントを乱暴にまとめると、資本主義をこのまま放っておくと貧富の格差が際限もなく広がって行くので、富める者から税金で取り立てて格差の是正を図るべきだという論理を主要各国のデータ分析をもとに組み立てたもの。


それにしても、一般受けするハズのない、しかも分厚いこんな経済専門書がバカ受けするというのはめずらしい現象だ。世界で百万部を突破、日本でもすでに十万部売れているともいわれる。そのピケティ氏が1月末から4日ほど来日したことで、一気に“ピケティ・ブーム”が過熱し、同書の売れ行きも爆発的に伸びている。まさに「ある人もない人も読む資本論」(よみうり時事川柳  2月4日)状態である。


そこで“ない人”の私も読まなくてはと思い、まず渋谷の紀伊国屋書店に立ち寄ってみた。ところが“平積み”で大量に売り場に出ているハズ(と想定していた)同書が見当たらない。若い男子店員をつかまえて聞いたら「あれ、昨日までここに積んであったんですけど」と不思議そうな顔をしながら、他の本に囲まれて何もない“空きスペース”を指差した。

ともあれピケティ来日を機に新聞・テレビ等マスコミが喧伝し、そちこちでピケティ先生がレクチャーし、国会ではピケティ理論を取りこんだ民主党が意気込んで安倍総理に格差論争を仕掛けた。安倍総理を支援する意図ではなかろうが、ピケティ理論の欠陥を指摘したり反論する学者もいるが、大筋において格差が拡大していることは、ピケティ先生の教えを待つまでもなく一般人も“体感”で知っている。


貧富の格差にも、資産、所得、教育の格差などいろいろあるが、もっとも主要な格差は所得格差だ。その所得格差、つまり所得分配の不平等さを示す指標に「ジニ係数」がある。ジニ係数は、0から1までの数値で示される。0は国民すべての所得が同じで格差の無い状態(あり得ないが)、1は特定個人による富みの独り占め状態で他の国民は無収入(これもあり得ないが)というケースで、その間の数値の変動で年々の所得格差の推移を示す。


先進国でジニ係数の高いのは米、英。低い方はフィンランド、デンマーク。日、独は中間にある。近年の日本はほぼ0.38レベルで推移する。しかし経済協力開発機構(OECD)は昨年12月、「加盟21カ国中、日本を含む16カ国で格差が拡大している」と指摘した。


今回の“イスラム偽称国”による虐殺テロへの対抗策として、安倍首相の力説する「テロは絶対許さない。だから人道支援に力を入れる」という“力の抜ける”決意に歯がゆい思いをした国民も少なくないと思うが、国家や民族による格差拡大と貧困がテロの温床になっていることは否定できない。先のジニ係数では0.4レベルが“警戒ライン”で、これを超えると世情が物騒になるといわれる。すでに先進国は危険水域に達している。


いま世界は、自由主義諸国を中心に団結してテロに立ち向かっている。テロと自由の激突である。ピケティ先生は、富裕層への資産課税を強化して貧困層との格差是正を図れ、そのためには資産や所得隠しの海外流出を許さない国際的な協調体制が必要だという。そこには“富裕層”と“貧困層”の激突が生じる。「21世紀の資本」戦争の勃発は間近い? 


(山勘 2015年2月16日)