例会報告
第49回「ノホホンの会」報告

 
2015年10月29日(木)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

 高幡童子さんが欠席でしたが、他の皆さんは定刻通りに集合でした。今回は芸術の秋に相応しく、クラシック音楽と西洋絵画に関する書が紹介されています。ドビュッシーといえば、あるとき友人が彼を訪ねたらちょうど弦楽四重奏曲を作曲中で、部屋中にベートーヴェンの弦楽四重奏の楽譜がちらばっていたというまことしやかな話を読んだことがあります。ただ、ドビュッシーの名誉のためにいえば、この1曲だけの弦楽四重奏曲は名曲と評判の高いものです。

 日韓、日中間の外交問題、中国の内政問題は今回も書感で取り上げられ、相変わらず侃侃諤諤の議論を呼んでいますが、一体全体どのように落ち着くのか、皆目見当が付きません。フィリピンが提訴していた南シナ海の領有権問題を常設仲裁裁判所が審理することになったという最新ニュースは、国際正義に対する微かな光明かもしれません



(今月の書感)

「どこまでがドビュッシー? 楽譜の向こう側」(狸吉)/「昔の女の子。今七十七歳」(致智望)「 『絶筆』で人間を読む」(山勘)/「鉄道の『鉄』学―車両と軌道を支える金属材料のお話」(本屋学問)/「女はバカ、男はもっとバカ―我ら人類、絶滅の途上にて」(ジョンレノ・ホツマ)/「中南海―知られざる中国の中枢」(恵比寿っさん)


(今月のネットエッセイ)

「蔓延する“不寛容”」(山勘)

(事務局)



 書 感

どこまでがドビュッシー? 楽譜の向こう側/青柳いづみこ(岩波書店2014年 本体2,100円)


 「月の光、牧神の午後への前奏曲、亜麻色の髪の乙女」など数々の名曲の作曲家ドビュッシー(1862-1918)。また彼と相前後して登場したワーグナー(1813-1983)、ラヴェル(1875-1937)、バルトーク(1881-1945)、ストラヴィンスキー(1882-1971)、プロコフエフ(1891-1953)、ガーシュイン(1898-1937)など数多の有名な作曲家に皆さまは馴染んでおられよう。しかし、彼らの実際の姿は霧の中で、等身大の人間とは感じられないのではあるまいか。本書は大阪音大教授、エッセイスト、ドビュッシー研究家の著者が音楽に関する豊富な知見と様々な資料により、ドビュッシーを中心とした作曲家たちの実像を生き生きと描いている。


ドビュッシーはラヴェルの「ハバネラ」の初演がいたく気に入り、ラヴェルに頼み込んで楽譜を借り、そのままついに返さなかった。ドビュッシーの没後8年目に出版:演奏された「リンダラハ」は「ハバネラ」にそっくりだったという。今日ならば佐村河内氏のように世の指弾を浴びることであろうが、当時は著作権の概念も存在していなかった。またドビュッシーの歌曲は初期にワーグナーの影響を強く受けたが、次第にそれから抜け出し独自の色彩を確立したとも…。逆に「月の光」は後年アメリカの映画音楽に様々な形で引用された。このように作曲家たちは互いに影響を与え合っていたのだ。


ドビュッシーはピアニストでもあるが、当時の自動ピアノの記録を再生すると、彼は自作の曲も楽譜通りには演奏していない。また楽器の限界を無視して作曲するときもあり、演奏家は元の調子を崩さず弾きやすい楽譜に改変することが許された。このように多くの人たちの手が加わり、「どこまでがドビュッシー?」と思われるほど初演から形を変えた作品もある。しかしこれはいささかも作曲家としての名声を貶めるものではない。すべての曲がまぎれもなくドビュッシーの香りを漂わせているのだから。


自ら音楽家である著者はドビュッシーに止まらず、バッハ、ベートーヴェン、モーツアルトの古典時代からフルトヴェングラー、グレン・グールド、アシュケナージなど現代まで、多くの音楽家の面白い逸話を紹介しているが、長くなるので内容は本書を読まれたい。また「大西順子さんとサイトウ・キネン」、「クラシックとジャズの間」、「村上春樹さんと小澤征爾さん」と幅広いテーマを独自の視点で論じる。昨年マスコミに騒がれた「佐村河内問題」も詳細に論じ、ゴーストライターの新垣氏の才能を称賛している。「佐村河内氏は莫大な収入を得たが、ドビュッシーは前衛作曲家であり続けようとして莫大な借金を残した」というコメントは面白い。


この本を読んで、これまで名前だけしか知らなかった有名な作曲家たちが、急に人間的な存在として感じられるようになった。本書は専門家の手引きで音楽の世界を案内してくれるガイドブックである。どのページからでも読み始められ、すぐ内容に引き込まれる。文才のあるこの著者でなければ書けぬ作品であろう。薄っぺらな音楽知識しかない狸吉にも雲の上の音楽世界を覗かせてくれた著者に感謝する。


(狸吉 2015年10月11日)

 「絶筆」で人間を読む/中野京子(NHK出版新書 本体1,100円)


 サブタイトルに「画家は最後に何を描いたか」とある。表紙カバーに、ボッティチェリから、ゴヤ、ゴッホまで―15人の画家「絶筆」の謎に迫る!とか、ミレーはどうしてこの絵を最後に描いたのか、などの惹句が踊る。これに惹かれて興味本位で一読したが、看板倒れの感が強く、いささかがっかり。

 たとえば本書で、最後に描いた絵の代表格として挙げるミレーは、貧困の生涯と晩年の激しい頭痛に苦しんだというが、その絶筆絵画は少年のころ一度だけ目にした光景だという「鳥の巣狩り」。絵は、真夜中、低木にとまっている野鳩の大群にいきなり松明をかざすと、目が眩んだ鳩はパニックに陥り、飛び去ることができずに羽ばたいて右往左往する。それを二人の農夫が棍棒で撃ち殺し何百羽と仕留める。闇と光の中で目を覆うばかりの殺戮。狂乱する二人の農夫と地を這うようにして落ちた鳩を拾う二人?の農婦。

そこで筆者は「人生の最後になぜミレーはこれを描いたのだろう?」と問いかけながら、結局「労働の聖性を描き続けてきた画家は、家畜を解体するのとは違う狩猟的な仕事の一面も描き残しておきたいと思ったのだろうか、これもまた農村生活の現実だ、と―」と文章を締めくくっている。これではとうてい本書のタイトル「絶筆」で人間を読む―核心に迫っているとは思えない。

いきなり「看板に偽りあり」と指摘したが、本書の良さは別のところにある。ボッティチェリ(1445-1510)にはじまり、ラファエロ、ティツィアーノ、ブリューゲル、エル・グレコ、ルーベンス、ヴァン・ダイク、ベラスケス、フェルメール、ホガース、ゴヤ、ダヴィッド、ヴィジェ=ルブラン、ミレー、そしてゴッホ(1853-1890)まで、およそ400年に渡って登場した15人の大画家の人と成り、そして偉業を手際よくまとめ、それぞれの代表作をカラー図版で懇切に解説しているところにある。つまり、見開き2ページに収録された大画家それぞれの代表作や絶筆作には、画面の周辺に“見どころ”を示す矢印と短い解説が付されている。本書はこうした絵の頁を見るだけでも十分に楽しい。

さらに本書の良さは15人の大画家の区分け、くくり方である。時代の流れを3つに区分し、「第1部 画家と神」では、ボッティチェリら5人の画家を取り上げて、宗教・神話を描いた画家と位置付ける。時代が下って「第2部 画家と王」では、ベラスケスら5人の画家を取り上げて、宮廷を描いた宮廷画家と位置付ける。さらに時代が下り、「第3部 画家と民」では、フェルメールら5人の画家を取り上げて、市民社会を描いた画家と位置付ける。

また著者が「はじめに」で、明確に名を挙げずに言っている、成功した芸術家が人生の終わりにさしかかり、「最後まで革新の試みに貫かれた絵があり」とは、例えばゴヤか。「若き日をなぞるだけの魂の抜けた絵があり」とは、例えばダヴィッドか。「スタイルも技量もいささかも揺るがぬ絵があり」とは、例えばヴィジェ=ルブランか。「明鏡止水の境地を思わせる絵がある」とは、例えばルーベンスか。その大画家を推理するのも本書の楽しみか。

要するに本書の楽しみ方はいろいろあろうが、結論的に言えば、中身は、「絶筆」で人間を読むといった興味本位の大胆なタイトルに似合わない真面目なもの。本書は、15人の大画家の足跡をコンパクトにまとめた良質な教養書だと言える。

 (山勘 2015年10月26日

中南海―知られざる中国の中枢/稲垣 清(岩波新書 本体780円


著者略歴  1947年神奈川県に生まれる。1972年 慶應義塾大学大学院経済学修士課程修了。

1972年 株式会社三菱総合研究所入社、在香港日本国総領事館特別研究員、三菱総合研究所香港支社長、三菱UFJ証券(香港)産業調査アナリストなどを経て、2013年より在香港中国研究者。

著書 『中国進出企業地図』(蒼蒼社)

     『中国のニューリーダー Who’s Who』(弘文堂)

     『いまの中国』『中国のしくみ』(中経出版)など


序章   米中中南海会談

第1章  中南海とは

第2章  中南海の現代史

第3章  中南海政治 誰が何をどう決定しているのか

第4章  中南海には誰がいるか

あとがき  

        参考文献  中南海略年表 人名索引


初めて明かされる謎の空間の帯が目に留まった。

昔、この界隈を散歩して中に入ってみたいという衝動に駆られたものにとっては必読と思い手にした。

        

中南海は故宮の西側に隣接する共産党と政府の所在地であり、中国の中枢である。要人が居住し国政を司り、限られた者しか出入りを許されず、地図さえない。

中南海を二度訪れたことのある筆者が、主要な建物とそこで繰り広げられた歴史、現在の党と政府の仕組みや人事を解説し、2017年以降の習近平指導部の動向を予測する。――――ジャケットより


ここに毛沢東や周恩来、ケ小平(失脚により3度もここに転入した)らが住んでいたことは万人周知のことであるが、今は誰がどこに住んでいるかは、いわば「国家機密」。勿論、外国人はおろか中国人でも極限定された人しか入れないし、共産党のいかなる組織がどこにあるかも公表されているわけではない。


この本によれば、国務院(中央政府)のどの機関がどこに所在しているか、部分的には紹介されている。即ち、中南海は党と政府の本部であり、重要な政策が決定される。決定は政治局常務会議だが、そのための議論と採決は毎月の政治局会議で決定される。議題や事項は党内の小組で準備されるという独特のもので「「小組政治」と言われるゆえんである。


中央と言う場合、それは共産党のそれを意味し、ここが最高権力機関であり、憲法や中央政府よりも上位に位置する。これが20人に一人いる共産党の頂点でもある。


最高幹部の汚職・腐敗が蔓延し、また各地で民族対立、暴動が起きるなど様々な社会不安を引き起こしているため、党への不信が高まっていて、共産党存亡の危機に直面しているともいえる。


内外の最大の関心事は、何と言っても習近平の進める「汚職・腐敗撲滅運動」であろう。かつてケ小平は「刑不上常委」という、権力者の免罪符制度?を作ったが、いまや習は現役ばかりでなく長老にまで取締りの網を広げている。名目上は汚職・腐敗撲滅という大義名分を掲げるが、これも単なる権力闘争(こうは書いてないが)。


かなり制度に基づいて執政されてはいるが今でも不透明で不可解が蔓延っている。


最高幹部や軍の最高幹部まで追及してやまない習のこの運動の先には何があるのか、終着点はなんなのか、中国の密室政治の行き着く先に興味が尽きない。


最近中国では「潜規則」と言う言葉があるそうで「明文規定以上に実生活を支配するルール」で、それは習らがこれを打破する政治的な動きをしているからだと解説している。密室政治に違いはないが…。


なお、習は「いま毛沢東」を演じているようにも見える(私見)。文革に代わる権力闘争の行きつく先が見えない。


追記:10月3日の軍事パレード

建国以来、いつの時代もそうだが、共産党の構造汚職・腐敗は全階層・全国におよび、国民公知で不満が募っている。

さらに市場経済化は経済格差を決定的なものにしていつ爆発してもおかしくない。党はその矛先を逸らすため、党の正当性を主張するのに軍事パレードを以って日本国悪玉化を演出していると見ると分かりやすいと思った次第です。

(恵比寿っさん 2015年10月27日)

鉄道の「鉄」学―車両と軌道を支える金属材料のお話/松山晋作・編(オーム社 2015年8月25日 本体3,700円)


東京と横浜の間をイギリス製蒸気機関車が走ってから140年余、鉄道は日本が世界に誇るお家芸になったが、最近日本の鉄道システムが本家のイギリスに輸出されたというニュースは、技術立国の栄枯盛衰を物語る実に意味深い出来事だった。

フランスの国鉄総裁をして「日本の新幹線は世界の鉄道を救った」といわしめた日本の鉄道技術は、世界最高の性能と安全性を実現して、斜陽産業といわれた鉄道に輝かしい未来を提示して見せたが、日本の鉄道がここまでに発展を遂げた陰には、先人たちの長い努力と苦難の道があったことはいうまでもない。

“鉄道の発展と安全を支えてきた鉄鋼材料。その技術変遷を辿ろうという試みが、本書の“「鉄」学”たる所以です“。

帯に淡々と書かれた紹介文とは対照的に、約300ページのなかに車体、台車、車輪、車軸、軸受、ばね、駆動装置、ブレーキ、集電、軌道、鉄道橋の11章と詳細な索引、それに入門者には親切な30ページ余の用語解説、鉄道材料技術史年表まで付いていて、鉄道材料の基礎と変遷のすべてを網羅した、まさに“鉄道材料エンサイクロペディア”である。

編著者によれば鉄道技術者のうち材料専門は少数派で、本書のように鉄道材料を概観したものはなかったそうだが、JRの鉄道技術研究所や鉄道車両メーカーの材料専門家7人が得意分野を執筆していて、皆心底鉄道好きなのか、自身の撮影による車両や施設の写真を随所に散りばめ、各章の解説も詳細この上なく、それぞれに鉄道に対する熱い思いと温かい眼差しを感じ取ることができる。

巻頭にあるように「材料なくして構造はなく、構造の進歩なくして材料の進歩はない」。産業技術全般にいえることだが、材料や生産技術の研究開発と進歩がさらなる性能向上をもたらす。技術というものが一般的にどのようにして発展していくのか、鉄道というシステムを例にして読み取るのも面白い。

鉄道に限らず日本の工業技術は、先進的で効率的な欧米の生産システムや技術、そして教育方法を取り入れながら発展してきたが、とくに鉄道は日本人の感性とよく合い、産業構造や社会習慣にも馴染んだ技術であり産業であったことが本書からよくわかる。

とくに戦後の産業復興の牽引力となったのが国鉄に代表される鉄道で、製鉄や電力、設備機械など、雇用を含めた巨大産業として大きな影響を与えた点で、鉄道が果たした役割は大きいものがある。また、鉄道橋の話で、日本は江戸時代から優秀な鳶職人に恵まれていたので、大型構造物である鉄道橋の建設は得意だったと書いているが、同じことはやはり日本の得意分野になったカメラや時計、家電製品など、江戸時代の職人技術から続くものづくり文化にもいえそうだ。

これだけの内容の鉄道材料専門書を自国の言語で出版できる国はまずない。各章の扉には編著者自ら描いた鉄道の挿絵が添えられ、この種の専門書にはない和みの瞬間も味わえる。“乗り鉄”や“撮り鉄”といった騒がしい鉄道ファンとは一線を画した究極の読者にとって、本書はある意味で鉄道の過去と未来をもう一度じっくり考えるのに相応しい“哲学書”といっても過言でない。

問題は、日本が営々と築き上げてきたこの見事な伝統と技術を今後も維持していけるかだ。目先の実用性や効率だけを考え、深い教養を軽視する教育改革を目指すお粗末な政策からは、もはやこのような伝承も生まれないのではないか。経験にも学べないような愚かな国家にだけはしたくないものである。

(本屋学問 2015年10月26日)



女はバカ、男はもっとバカ―我ら人類、絶滅の途上にて/藤田紘一郎(三五館 2015年6月発行)


著者は東京医科歯科大学名誉教授、脳と腸の関係を解き明かして話題となった「脳はバカ、腸はかしこい」、遺伝子にまつわる常識を覆す「遺伝子も腸の言いなり」など著者多数と紹介されている。

衣食住が完全に与えられた私たち日本人は、「家畜」のようにしか生きられなくなってしまいました。家畜化された動物は、おしなべて品質が揃っています。人間の家畜化とは、私たちみんなが同一規格化し、多様性を失っているとも言い換えられます。それは絶滅の危機に陥ったとき、あっという間に種が死に絶えることを暗示しています。

家畜は自然から切り離され、人間の文化で管理され形や修正を変えてきた動物です。しかし、私たち人間は自ら進んで家畜化の道を選び、それが幸せな生き方であると信じてここまで来てしまいました。結果的に私たちの目の前にあるのは「幸せ」ではなく「漠然とした不安」です。

では、どうすればこの家畜化現象を脱出して多様性を取り戻し、絶滅を回避して未来への明るい希望を持てるようになるのでしょうか。私はそのために、まず私たちの周りにいる動物や昆虫から学ぶべきだと思っています。という書き出しで始まっています。


前半の章では、様々な昆虫や動物の生態から見たオスメスと人間を対比させている。実にユーモラスにまとめられている。しかし、今の人間に直ちに当てはめるには無理がある。


「男がバカか?」「女がバカか?」というタイトルは、あくまでも表向きであって、どっちもバカになってしまった人間の現状を見直すため、必ずしも全てに説得力があるわけではないが、動物や昆虫の例で解説している著者の考えが素晴らしく見える。


 「男がバカか?」「女がバカか?」について著者の結論は、メスは冷酷なまでの合理性を持ち、オスはマヌケなまでの必死さを持ち、どちらも命をつなぐことに知恵を絞り、さまざまな駆け引きを行ってきた。贔屓目に見ても、駆け引きにおいてはメスが一枚上手で、オスに勝ち目はないようです。「女がバカ」なら、「男はもっとバカ」というのが生物の世界では動かしがたい事実なのかもしれない。

その過程で、人類の多くは一夫一婦制を選択し、その他の動物の多くは一夫多妻もしくは乱婚という形式を選んだ。どちらが正しいのか?


バカな女と、もっとバカな男が育んできた一夫一婦制という仕組みは制度疲労を起こし、限界を迎えている。その背景は「男」と「女」という旧来の役割が我々を縛り付けているだけの存在になっている。動物は自由に生きている。行き詰まりを打破すべく、新しい生き方へ踏み出すときが来ていると考えている。自然のままの動物に例えている。


女はつらいよ、男はもっとつらいよ。狩猟採集社会から農耕社会に変わり、平等が無くなり貧富の差が生じ、男女の役割が変化した。男は今の時代に生き続けることが大変。子どもさえ作れば女性にとって男はもう不要という感覚。


生物をメス化させる「清潔志向」という項では、男性が女性化している。清潔志向が、衛生面から考えられた梱包などが実は環境を悪化させている。ゴミが膨大に増え、ゴミが焼却処分される過程でダイオキシンなどの環境ホルモンが発生。環境ホルモンとは人間のホルモンに異常を起こすということで命名されたもの。

清潔を求めることでゴミが増え、殺虫剤を振りまくことで環境ホルモンが発生し、便利さを求めて添加物の多く含まれた食品を取るなどした結果、男性ホルモンの減少、女性には子宮内膜症の発生などの症状が現れてきたかも知れない。


なぜ男が不要になってきたのかについても、性への情熱を失いセックスレスにもなり、こどもの作れない日本に現代文明が男性の不要な社会を作りつつある。


一方で、もし人間がいなくなったら、この地球はどうなるのか。シュミレーションしている人がいて、如何に私たちの文明が自然に逆らって、地球環境のバランスを崩しているか、人類の絶滅を回避するためにも認識すべきと訴えている。

 エネルギー消費量と環境汚染物質量は、20世紀初頭から今日までのわずか100年ぐらいで急速に増加。便利な生活が楽しめるようになったが、引き換えに地球環境の問題については背を向けて来た。


現在のように、常に情報メディアに接していると、受け取ることに慣れてしまい、情報に対して受動的になって、自分で考えることをやめてしまい、鵜呑みにしてしまう。その結果、想像力を捨ててしまう。想像力のないバカはただのバカだ。


著者の以前の本で、今の日本人のお腹には回虫が住めない環境になっていると言う一言が今でも強烈に頭の隅に残っています。

清潔で便利になった環境が、自然に逆らってきて、今のバカな自分の身に降りかかっていることを認識すべきと、「ただのバカ」で終わらせないためにという処方箋付きが著者の卓越した配慮に脱帽しました。

(ジョンレノ・ホツマ 2015年10月27日)

昔の女の子。今七十七歳/小田島やすえ(文芸社 定価1,1005円)


著者の小田島やすえは、私が通っているマッサージ師で、何の特徴も無い目明きの女性マッサージ師である。その女性が、自分史を書きたいと言う願望が有った訳でもないし、出版社に知り合いが居たわけでも無いし、社会的地位のある人物でもない。極、ありふれたおばさんマッサージ師である、その女性が出版社から勧められるままに書いた自分史である。

その帯には、「我が人生を限りなく一歩一歩、戦時下の広島で生まれた著者が貧困やその後の様々な困難にも負けず、いつも前向きに生きてきた人生、未来を生きる若い人に伝えたい」と些か臭いタイトルが付いている。

私は、週に1度の割合で彼女のマッサージに通っていて、その話を聞いたとき、成る程それも有りうる事と思った。推測するに、地区の民主党党友としての活動、一人暮らしの老人や困っている人への支援など、売名行為とはまるで縁が無い性格で一生懸命と言うより淡々とそれらの仕事をこなす様は、何か人の心を注すものを感じていた。ご主人を10年程前に亡くし、美容院とマッサージ院を経営していたが、現在では、全て解散し一人で出来る範囲のマッサージ院を続けている。

著者の小田島やすえは、本書から読み取るに、広島の山奥で生まれ育ち、物心付いたときは父親の出征とそれに伴う母親の女手ひとつで4人の子供をそだてる苦労を見て育った事から始まる。終戦後父親が外地から復員してきたと言う幸運はあるものの、終戦後の食糧不足の苦労などが本書に記されている、その辺りは我々の経験と変わらない。彼女は、負けん気の強い女の子であったと言うが、母親は当時としては珍しく女学校を出ており、その実家もそれなりに裕福で終戦当時に貴重な着物を食糧に替える余裕が有ったと言う程度の家庭であったようだ。

高校は、広島市に出て友達との相部屋で生活しアルバイトで稼いで、生活費に充て、そのアルバイトは皮膚科医院の看護助手だったと言う、職場では先輩や看護婦から重宝がられたようだ。高校在学中に弁論部を立ち上げ、全国大会の中国地方代表に選ばれたり、NHK青年の主張コンクールへの入選などの活躍があり、後輩の木村快君と言う弁論部員との苦労話など、私の同時代と比較すると、その大人ぶりは比較にならない気がする。後年、この木村快君は、吉祥寺近辺で自分の劇場を持ち劇団を立ち上げ、現在も貧乏劇団として健在で、著者も時々訪れており、私も誘われるがその方面に興味が無いのでお断りしている。

高校卒業後、東京に出てきて明治大学の夜学に入学し、卒業するがその間安保反対運動などの記録が本書に記されている。現在は2人の息子がいて私から見ると良く出来た息子であり、その嫁さんも近頃には珍しい出来の良い人達である事が一見して読み取れる。と言う事で、不断何気なく話す話題からなかなかの努力家であり、出しゃばらず、控えめの行動に好感が持てるおばさんを感じるのである。だから、この人に目を付ける人物が居ても不思議でないと思える。このマッサージ院に通う客も場所柄として北里病院の関係者が多い事や、それ以上に看板を出さずに、人伝手に客を選んでいる事も営業のノウハウと思う。何分その様な計算をする人に見えないところがすごい。そして、この書は、産経新聞の書籍案内に紹介され、東北の地震災害地の人に読んでもらいたい「書」として紹介されている。

(致智望 2015年10月16)

 エッセイ 

蔓延する“不寛容”


どうも近ごろ世の中がとげとげしくなってきたナ―と、そんな思いを強くしていた矢先に「不寛容」という言葉に出会った。国語辞典によると、まず「寛容」とは「心が広く、人を受け入れ、過ちを許すこと」とある。したがってその逆である「不寛容」とは「心が狭く、人を受け入れず、過ちを許さないこと」となる。

人の声に耳をかさず、むき出しの自説を主張して衝突する人がいる。近年とみにこうした不寛容な態度をとる人間が増え、人間関係が不寛容になってきているように思える。国際関係でも不寛容な国が目立つようになった。たまたまそんな思いを強くしていた折りに、新聞のコラムで哲学者鷲田清一さんの文章に出会った。

読んでいる人も多いと思うが、朝日新聞の一面に、鷲田さんが執筆する「折々のことば」という小さなコラムがある。10月17日の同欄で、イタリアの作家イタロ・カルヴィーノという作家のおよそ40年前という言葉を紹介している。それは「今日の不寛容は、ある特定の議論を強要-するというより、あらゆるタイプの議論を拒否し、議論そのものを嘲笑する」というもの。乱暴に要約すれば「不寛容は、議論を拒否し、議論を嘲笑する」ということになる。また、カルヴィーノは、不寛容とは、外部からどんな声も伝わってこない状況、他者が自分の内部に介入してこない状況を求めることで、「世界の死体化」を望んでいることだと言っているという。

これは、前述のように、およそ40年前に書かれた「水に流して」(和田忠彦ほか訳)からの引用だというが、そこで鷲田さんは、『この言葉は40年後の極東の地での「今日」でもあることの意味を問い正す必要がある』と言っている。

鷲田さんは、その不寛容について具体的な事例を挙げてはいないが、言われてみれば確かに、国内においては先の安保関連法案を巡る対立や沖縄基地問題、原発問題、それらを巡る国内世論やマスコミや学者や政治、極東社会においては韓国も、北朝鮮も、中国も、米国さえも、近年ますます不寛容な姿勢を強めてきているように見える。

最近起きた顕著な不寛容の一例は、産経新聞の元ソウル支局長加藤氏が同紙の記事で韓国の朴槿恵大統領の名誉を傷つけたとして同国の裁判にかけられたことである。一個人の小さな問題ではない。言論、報道、表現の自由という民主主義の根幹を揺るがす大きな問題である。この、度を越した不寛容な主張をする韓国は本当に民主主義国家の一員なのか。韓国以外の非民主主義国家、北朝鮮、中国など、もともと不寛容な国家の不寛容な態度はますますその度合いを強めている。

 常に思うことだが、10人のうち左右両極に立つ2人の意見が対立する場合は、中の8人が協議して結論を出すのが民主主義だ。その両極に立つ2人が3人4人と増えて行く状態が不寛容の蔓延する姿だ。不寛容は両極端の人間ないし国家が持つ特徴的な属性だ。

ただし冒頭にみたように、「寛容」とは「心が広く、人を受け入れ、過ちを許すこと」である。したがって、寛容に徹すれば相手に何の“作用”も及ぼすことのない“無抵抗主義”となる。逆に不寛容は「議論を拒否し、議論を嘲笑」して相手に強い“作用”を及ぼすためのパワー(政治力、戦力)を重視し、“覇権主義”となる。

したがって採るべき選択肢は、常に寛容と不寛容の間で解を求める民主主義であることを忘れてはなるまい 。

(山勘 2015年10月26日)