例会報告
第37回「ノホホンの会」報告

2014年9月17日(水)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、高幡童子、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

夏休み後の最初の例会は、全員が元気に顔を揃えて始まりました。地球環境の今後、日本経済の行く末、消費税の不公平さ、金融問題の真実、健康と栄養…、今回の投稿も世情を反映してバラエティに富んだものでした。とにかく、日本がもう一度元気に
なってほしいものです。

それにしても、体液と海水の組成は似ているとか、毒性があるといわれる重金属もヒトの体を形成するのに不可欠な成分だとか、改めて生命の神秘を知りました。また、年齢が進めば誰でも身体能力が落ち、目も耳も弱ってきますが、見えない分、聞こえ
ない分を脳が経験によって補っているとは! とくに言語はそれが顕著で、知性が高く語彙能力のある人ほど、会話の前後から言葉を類推できるので難聴といわれにくいとか。いつもながら、“目から鱗”の有意義な会でした。

高幡童子さん配布の「羅針盤U」は都教委が編集した高校生のための推薦書だそうですが、私たちにも大いに教養を授けてくれそうです。折りに触れて図書館などで紐解いてみるのもよろしいのではないでしょうか。

(今月の書感)
「西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来」(ジョンレノ・ホツマ)/「あなたの知らない日本経済のカラクリ」(致智望)/「重金属のはなし」(恵比寿っさん)/「中国汚染の真相」(本屋学問)/「羅針盤U」(高幡童子)

(今月のネットエッセイ)
「ホツマ・エッセイ 先々々月の続き」(ジョンレノ・ホツマ)/「ゲーム脳」(本屋学問)/「『戦争』と『防衛』の関係」(山勘)/「本気で戦争の意味を考えよう」(山勘)/「目と耳と頭の衰え」(狸吉)


(事務局)
 書 感

西暦536年の謎の大噴火と地球寒冷期の到来/河合潤(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

表題の西暦536年という年が気になり、読んでみました。タイトルの内容に至る著者の経緯(脱線)の幾つか得心のいく内容でした。


この536年ころ榛名山が噴火して、榛名山の麓では火山灰に埋め尽くされた平城京にも勝るとも劣らない広大な遺跡の発掘調査が行われていることを思いだしたからです。


ホツマツタヱの中に、噴火前の出来事ですが、「はるなははみち」という豪族が天照神と出会っていたからです。

さらには、538年の仏教伝来も噴火と何か関連ありそうな気がしたからです。

前書きに、地球温暖化は人類の未来を考えるうえで重くのしかかる大問題です。しかし見方を変えると、地球寒冷化に対しても人類は備えなければならないかもしれません。と釘を刺しています。


第1章は、NASAの研究者がどのようにして536年から10年間続いた地球寒冷化を発見したか、その発見が一度は否定されたり、さらに寒冷化の別の説が提案されたりした経緯の紹介になっています。


第2章は著者が536年の寒冷化に興味を持ったきっかけ。寒冷化が及ぼした歴史への影響、飢饉や人口の大移動、国の興亡や宗教の勃興など、火山活動がきっかけとなって、様々な史実が起こったことを紹介しています。


第3章は天照神の天野岩屋の神話と536年の噴火と関連付けて推測されていますが、天照神は紀元前1000年以上昔のことですので無視させてもらいました。

著者は、本書のきっかけとしてNASAの論文から資料を調査したときに、独創的な論文ほど査読ではねられている旨が冒頭にあり、なるほどと得心しました。

日本の科学論文は権威のある学説を補強する傾向のものが大部分で、権威のある研究者の間違いを指摘した論文や、くつがえす研究論文は、この査読プロセスでどこかに消えてしまう。


著者自身、過去を振り返ると独創的な研究論文程、査読者(権威者の審査)によって撥ねられて陽の目を見ることがなかったそうです。

その結果、従来から正しいと思われている説・流れは、偏った説で、正しくない可能性があっても、絶対的に正しいものとして流布されていることがあり得ることを認識すべきことを理解しました。


歴史の世界でも、例えば、邪馬台国の畿内説、九州説のように、その枠の中での論争が、当てはまっているような気がしました。

本題の火山の大噴火と寒冷化についてです。


過去の気候変動(寒冷化)と民族大移動は一致していることがわかってきている。そして、気候変動が世界史を動かした要因であるとは今までは習ってこなかった。

きわめて激しい冷夏が原因で戦争が起こったならば「ネイチャー」の論文は世界史を書き換える論文であると述べています。


しかも、極めて厳しい冷夏の原因が、突発的な火山の大噴火や太陽活動であるとすれば、人的な要因によってのみ動いてきたのではなく、もう一度歴史を見直す必要があると述べています。

著者は炭酸ガス温暖化説には一言も触れていないし、本当は、温暖化ではなく、寒冷化の方が万一生じたときの影響が大きいので、注意をそそぐべきであるということもわかりました。


著者は脱線という言葉を使っており、もう一つ触れてみたい事がありました。


それは、以前の投稿でも取り上げたことがありましたが、遺伝子組み換え作物についてのやりとりです。

遺伝子組み換え作物でも自然の作物でも、食べた後はDNAは消化されて栄養として吸収される。その遺伝子がどのような配列であろうとも、消化してしまえば栄養となることには変わりはない。


だから遺伝子組み換え作物に反対している人は感情的で非論理的だ。というのが遺伝子組み換えに賛成の人の考え方。

その意見に対して、農薬成分をつくりだす遺伝子がDNAに書き込まれているなら、DNAという物質自体は食べて消化しても何の差しさわりもないわけですが、その遺伝子によって、農薬成分が作物のなかに産出されているはずです。


どんなに洗っても、作物の細胞深くに化学物質としてふくまれているなら除くことはできませんし、食べたくもないと思うのは当然です。と質問したら、その賛成者の先生は、それは知らなかったということでした。


知らないで、推し進めていることの恐ろしさを痛感しています。


(2014年9月8日 ジョンレノ・ホツマ)

 

あなたの知らない日本経済のカラクリ/岩本沙弓(自由国民社 本体1,600円)


著者の岩本沙弓は、金融コンサルタント・経済評論家であり、大阪経済大学の教授を務める傍ら、政府関係の金融経済関係のフォーラムに参加している。またトレーディング業務にも関わると言う経済の広範囲にわたる経験をつんでいるようだ。


本書は、対談形式で「この人に聞きたい」と言う副題があり、日本経済の憂鬱と再生への道筋を謳っている。


序章では、著者自身の持論が述べられていて、その論調は「日本が抱える1000兆円の借金と金利上昇による財政への大打撃は本当か」と言う表題である、内容は「国民を不安に陥れる言説に対し真贋を見極める目が必要」と題し、それなりの理由があるから、銀行は国債を大量に保有出来ると説いている。このくだりは、どうも納得出来ない、銀行の抱える国債は、投機的なものでなく資産として保有するものであり、購入した国債の会計処理の仕組みが説かれており、価格の変動は有り様が無いと言う。それは確かに理解出来る、しかし、持っている国債の償還時に額面が保証されているとは言え、その時点で何が起こるか分らないから、事次第によって金利が上昇するのではないのか。


著者は「国民を不安に陥れる言説に対し真贋を見極める目が必要」とアベノミクスを讃える論調で始まり、現政権への提灯持ちと思えてならない。本書の序章以後は、テーマを揚げて、著者との対談形式で進められるが、著者が自分の論調を一番に掲げるあたり、読者への先制的マインドコントロールなのかも知れないが、揚げられたテーマはアベノミクスに都合の良いものばかりではない辺りを評価して、読み進むことにした。


第一章は、「公平を謳う消費税の不公平な実情」と言うテーマで、湖東京至氏との対談である。湖東京至氏(コトウ キョウジ)は、税理士で静岡大学教授であり、多くの税理士の公的役職を務められている。


湖東氏の「公平を謳う消費税は、歳入増に結びつかないのになぜ、税率を上げるか」と言う件、消費税は輸出企業への支援であり国を挙げての輸出振興策と言う。消費税が国庫に収まるのは極わずかで、輸出企業の懐を潤し、庶民が疲弊するだけと言う。著者との対談形式であるが、考えてみると私の経営する会社も金額は少ないが輸出業を行っており、消費税相当分が返ってくる。一方、小企業からの仕入れは、しっかりと消費税が上乗せされ、それが国庫には入っていないのは歴然であり、これが違法でないと言うから怒りは収まらないと言う実態がある。


輸出量の多い企業は、この還付金が半端な金額でないことは歴然である。このあたりの事情を事細かく述べられており、改めて「消費税は公平なもの」と考えていたわたくしには、カウンターパンチを食らったようなものであった。


第二章は、「驚くほど低い巨大企業の法人税」と言うテーマで、富岡幸雄氏との対談。

富岡幸雄氏は、租税学者で中央大学名誉教授、政府税調特別委員などを歴任されている。

グローバル企業が利益の1、2割でも法人税を納めれば国の財政は黒字になると言う。


私も経営に携わっているので、なるほどと思う事はあるのだが、例えば、行政の制度融資とか、開発費支援と言うのが有って、税負担を軽減してくれる制度がある、これらは中小企業への支援であって大企業は関係無い事と思っていたが、大企業にもそれなりの支援のための税制補助があると語られていて、私の知らない事をしるに至った。


第三章は、今、日本は米国と如何に向き合うべきかと言うテーマで、孫崎亨氏との対談である。この人は、1943年満州国生れ、評論家で元防衛大学校教授。米国のなかにも色々な勢力が有って、ゆれ動いているが、日本をパートナーから除外しての戦略は米国として立てられない構図が出来上がっていると言う。それは、どれほど政治体制に疑念があろうと、現実的に無視できない存在と言う。しかし、金融・産業界があり、こちらの声が優勢と言うのも事実と言う。


そう言う環境の中で、安倍総理の「靖国参拝」は不味かった、と時の空気の読み違いであったとのこと。我々の知らない空気感などが述べられており、中国との微妙な関係時期での状況説明は参考になった。しかし、我々にとって「だから何だ」と言う要素も有って、関心を持つことの難しさを感じた。


第四章は、経済に翻弄されないために必要な力と言うテーマで、堀茂樹氏との対談となっている。堀氏は慶応大学総合政策学部教授で、フランス文学者・翻訳家であられる。この人は、経済学者ではないが経済学に興味を持ち、それなりに研究している。庶民生活の中での経済学的切り口での話はおもしろかった。結論として、「個人が経済を飼い馴らすこと。浮き足立たない、静かな自信が日本経済を回復させる」である。文化系の人の話は難しい、参考になるから読んで理解して下さいと言うのが私の書感です。


終章は、著者自身の論調。なかなか良い事をいっている。熟読すると味がある。テーマとして言っている事を揚げて置く。


批判の、その先のステップに向かう必要がある。善悪で判断し、批判すればよいという時代はとうにおわっている。「考える」ことは、「信じる」ことよりも、情報に対して冷静な態度で臨むものと言うものであるが、何か哲学を思わせるテーマに感じ、同時に現政権へのエールを感じてならない。


(致智望 2014年9月9日)

重金属のはなし/渡邉 泉(中公新書 本体880円 2012年8月25日発行)


著者プロフィール  

 71年大分県生まれ。98年愛媛大学大学院連合農学研究科博士課程修了。

 東京農工大学助手などを経て、現在 東京農工大学大学院農学研究院環境毒性学研究室(環境汚染解析分野)准教授。博士(農学)。 専攻:環境科学・環境毒性学

 著書:「いのちと汚染と毒性学」(本の泉社 2012)

    「環境毒性学」(共著 朝倉書店 2011)ほか


目次

はじめに

第一章  産業の最重要素材 人類の歴史を牽引した重金属

第二章  からだと重金属 必須性と毒性

第三章  水銀 古くて新しい地球規模の汚染

第四章  カドミウム 日本発の食糧汚染

第五章  鉛 野生動物を直接しに至らしめる環境汚染物質

第六章  ヒ素 毒の代表選手

第七章  必須元素とレアメタルによる環境汚染

第八章  悩ましい存在と生きる 重金属対策の今後


重金属は猛毒でありながら、微量であれば必須元素であると言われているが、その矛盾と根拠を解説した資料にお目にかかれずに今に至っているが、系統だった説明が得られていると思い手にした。従って、私の興味の中心は第二章であり、今回はその1として、第二章についての書感です。


身の回りは重金属やレアメタルを用いた製品が溢れているが、一方で重金属は生命の存在に不可欠。亜鉛や銅は1930年代に必須性が知られていたが、現在では鉛やヒ素、カドミウム、水銀までもが動物の必須元素である可能性が高いそうである。何故毒性のある重金属が生命に必須なのか矛盾を感じる。


 第二章に述べられていることは概略次の通りです。


人類、生物すべての生命維持に重金属は不可欠な存在。高等動物は、複雑かつさまざまな生体内の働きのために重金属を利用している。生命の維持に必要な金属は必須元素(必須微量元素)と呼ばれる。生体を構成する酸素や炭素、窒素やカルシウムやリン、硫黄、カリウム、ナトリウム、塩素、マグネシウムも必須だがこれらは多量元素、少量元素と呼ばれ(必須常量元素)とされるそうで、必須元素とは①不足すると欠乏症になる②回復には代替物質では不可能③その元素を含むたんぱく質や酵素が体内から取り出せること、の3条件を満たすこととされ、人間では鉄、亜鉛、マンガン、銅、セレン、ヨウ素、モリブデン、クロム、コバルトの9元素とされる。


必須元素が欠乏することは基本的に起こりにくい。食べ物には必須元素が含まれているからだが、ひとたび欠乏が起きると深刻となる。成長障害や骨格異常、生殖能力など生命の根幹にかかわるからである。ふつうは取り込みの抑制や促進を行い、体内で一定量が維持されるが、このメカニズムをホメオスタシス(恒常性の維持)という。


なぜ、からだの中に金属があるのか、生命の全歴史、更には地球や宇宙の誕生にまでさかのぼるもので、生命の誕生から40億年の歴史と重金属は密接に関係している。


異説もあるが地球史には①誕生(48億年前)②プレートテクトニクス開始(生命誕生、40億年前)③地球磁場誕生と光合成生物の誕生(27億年前)④陸地の形成⑤魚の祖先(硬骨格動物)出現(6億年前)⑥酸欠による生物大量死(2.5億年前)⑦人類誕生(500万年前)のイベントがあった。生物進化にも①誕生②代謝の始まり③光合成の始まり④真核生物登場⑤多細胞生物⑥陸上進出⑦人類誕生があり、地球のイベントと重なるものもある。


生命は深海(の熱水噴出孔)で誕生したが、その根拠は海洋と体液の、必須元素を含む微量元素の組成が似ているから。生命を単純に定義すれば、環境から膜で隔離され、その内部を一定の状態で維持するものと言える。そのためには代謝能、変異能、複製能が必要で、必須元素が体内で一定レベルに保たれるのは、この特徴による。


その他、体の中になぜ金属があるのか、金属毒性とは何か、その障害発生のメカニズムが解説されていて興味深いです。


(恵比寿っさん 2014年9月14日)

中国汚染の真相/富坂 聰(KADOKAWA 中経出版 2014年8月28日 本体1,000円)

北京大学に留学の経験があり、ジャーナリストとして長く中国問題を取材してきた著者が、驚異的な経済成長を続ける裏で中国が抱える深刻な環境問題を、豊富な知識とデータを駆使して鋭く衝いたドキュメントである。


環境問題はあらゆる経済発展国家が避けて通れない課題だが、中国の環境破壊は私たちの想像をはるかに超えている。本書の「大気汚染の正体」、「水不足の実態」、「環境対策と貧困の壁」の3章すべてが、現代中国の課題そのものを表わしているキーワードといってもよい。


中国の環境汚染は改革開放政策というより、社会主義体制下で蓄積された問題の上に急激に積み上げられた結果だと本書はいう。近代工業国家では環境対策が重要であるが、中国の大気濃度基準はアメリカの5倍、日本やヨーロッパの15倍も緩く、精製コストを抑えるために国内で使用するガソリンの質を下げ、それが大気に悪影響を与える。国営企業である石油会社は利益優先で新しい精製設備投資に積極的でなく、投資コストはガソリン価格に添加するなど政治と企業の癒着も極端である。中小企業のほとんどは環境対策に無関心で、さらに中国の多くの家庭では暖房用はもちろん、調理用に今も石炭が使われていて、大気汚染はいっそう深刻さを増している。


日本の気候がそんな中国の影響を受けるようになったのは、西日本で光化学スモッグが問題になり始めた2000年頃からで、当時は日本の環境問題と中国を結び付ける考えかたはなかった。しかし、2007年頃に中国から何千kmも離れた山形県の蔵王で樹氷に含まれる硫黄成分を分析したところ、中国山西省などで使われる石炭の成分と特徴が一致したことや、酸性雨の影響が1994年頃からゆっくりと出始め、2006年で10倍になったことが中国の工業化の進展と同じ傾向をたどったことなどから、日本もようやく問題視し始める。


流行語にもなった「PM2.5」は、中国当局がそれまで濃霧としてきたものを北京のアメリカ大使館が暴露して明らかになったが、石炭や石油などが燃焼して発生する粒径2.5μm以下の有害粒子状物質のことで、PM10などとともに肺炎や肺がんを引き起こす大気汚染の元凶ともいえるものである。


北京などの大都市では普段の生活にもマスクが欠かせないほどで、大気汚染による北部地域の住民の平均余命が5.5年短くなるという研究報告もあるそうだ。そして、香港名物だった“百万ドルの夜景”は、現在では煙霧が原因でほとんど見ることができなくなり、ついには観光用写真パネルができたとかで、ユーモアを超えた深刻な現実である。


 “中国で起こる変化は広東から始まる”といわれるように、すべての社会現象はまず広東省で見られるという。政治の中心から遠く雰囲気が自由なのと、何より香港に近い。工業立地で環境破壊のフロントランナーだった広東省は、賃金上昇などで製造業が他に移転してイメージが大きく変わり、環境が良くなって大気汚染度が改善されたそうだ。


中国には水力発電や灌漑用ダムが約8万7000もあるというが、無計画なダム建設は維持管理まで手が回らず老朽化が進み、土砂が堆積して放置されるケースが増えている。これが大洪水の原因で、1950年代から始まった長江沿岸の乱開発によって森林破壊が進み、土砂の流出で川底は45cm上昇した。とくに、流域人口が全国の1/3を占めるという長江の「三峡ダム」事業は周辺地域の気候まで変えたといわれ、2000年に入って中国の電力需要は3倍になり、三峡ダムの発電能力の限界から皮肉にも近くに新しく火力発電所を建設するなど、中国の電力逼迫と水力発電の限界が明白になったと本書はいっている。


さらに、長江流域の都市から流れ込む工場排水や生活排水は230億トンを超えて全国の排水の約1/3にもなったが、汚水処理率は15%未満と水環境の改善は進んでいない。また、水源であるダムからの流入量が最盛期の1/4に減ったことで、川の水が海まで届かない「断流」現象が起こり、たとえば黄河は1970年代から始まって、1997年には1年間で226日断流が発生したそうである。


中国の広さを考えると意外だが、中国の一人当たりの水資源量は約2100m3で世界平均の7500m3よりはるかに少なく 、水不足は深刻で毎年約500億m3足りないという。年間降雨量も一人当たり世界平均の1/4の約5000m3と、日本の約5150m3に比べても少ない。しかも、中国では水を必要とする農地の3/4が水資源の乏しい北部に集中していて、その地域の人口は中国全体の35%にもなる。


中国政府は、長江や黄河などの大河を運河で結んで南の水を北に調達する「南水北調」事業で、北京など北部大都市圏の水不足解消を計画したが、北京では消費される水の40%が地下水からといい、地盤沈下が懸念されるほどの地下水依存で、地方都市でも水道管の腐食や水漏れが多く、とくに河北省など農産物生産地では水質や土壌汚染が深刻になっているようである。


このように中国は日本以上に水資源確保に真剣になるべきなのに、一日あたりの水消費量は日本人が約380ℓなのに対して中国人は約400ℓで、それも工業用より生活用が大部分という。本書は、「南水北調」は結局、中国人から節水の観念を奪ったのではないか、中国に必要な発想は川の流れを人工的に曲げたり伸ばしたりすることではなく、水を節約すること、再利用すること、そして汚さないことだが、中国人にはどうもその考えがないと指摘している。


かつて世界第4位の面積を持っていた中央アジアのアラル海は、旧ソ連による無計画な灌漑や運河の建設で水量が激減し、汚染が進んで「死の湖」と化してしまったそうで、専門家の間では社会主義体制の典型的な“世紀の人災”として名高いと本書は紹介しているが、いつの日か三峡ダムはじめ中国の河川や湖も同じことになってしまうのか。

本書はさらに、中国の漁民が韓国や日本のEEZ(排他的経済水域)にまで入り込んで漁業をするのは、中国近海の水質汚染と乱獲で漁獲量が以前の1/3になったためで、中国近海の漁場には水産資源も消えつつあるといっている。中国の環境汚染は、もはや国内問題ではなくなっている。


13億人の国民を養うのは大変なことだろうが、中国がこれまでと同じ政策を続ける限り、自然も環境も悪化の一途をたどるしかない。彼らの思想や国民性、長い間の生活習慣を考えると変革を期待するのは難しいだろうし、中国に有効な外圧はあるのか。まさに“百年河清を俟つ”、漠とした無力感が残ったというのが率直な読後感である。


(本屋学問 2014年9月15日)

羅針盤Ⅱ/東京都教育委員会


NHK学園の図書室入り口に遠慮がちに積まれたかわいらしいパンフレットを見つけた。副題に「高校生のための本42冊」とあり、19ページの品のいい体裁で、発行者を示す「東京都教育委員会」の表示がひかえめで、おしつけがましさを避けたいとする編者の心配りがにじみでている。

 

現物を配布するので、改めて中身の紹介はしないが、ページをめくった感じがすがすがしい。本好きになって、視野の広い人になってもらいたい、日本の歴史を知り、ほこりをもった国民に育ってもらいたいという気持ちがふつふつと伝わってくる。


実をいえば、42冊のうち、私が完読した覚えがあるのは「山椒大夫」ぐらいであるが、今からでも遅くはない、命あるうちにそれ以外の名著も読み返し、青年の日々を思い出してみたいと思う。


4年前に同趣旨で発行された「羅針盤」が典型的なお役所仕事で、なんの感激も起こさなかったのに比べ、今回はいろいろな面で大きく進歩した。適任者の発掘と、トップからの強い支援があったにちがいない。前回との差がなんだったのか、ケーススタデイとして検討し、改善を積み重ねていけば、日本の将来にも明るい希望を持てる。


(高幡童子 2014年9月17日)

 エッセイ 

ホツマ・エッセイ 先々々月の続き


卑弥呼と邪馬台国について、今までにもホツマツタヱの記述から読み取ったことを取り上げてきました。


魏志和人で言うところの邪馬台国は、日本人が「やまたい」という国の名前の音声を聞いて漢字に当てはめたもので、元々の意味は「やま」(山)の「た」(たんぼの田・宝)が「い」(居る・在る)国を意味していたと感じ取りました。


しかしながら、「やまたい」の「い」は「居・在」よりも、井戸の「井」の方がぴったりしているように思いました。井戸の「井」は水を汲み取る所、ここでは金・銀・銅・鉄を掘り出す所、のニュアンスにあっていると思ったからです。


「ひがしら」と呼ばれた日高見のタカミムスビの存在を考えると、金が豊富に埋蔵されていた仙台地方に山田(やまた)という地名も残っており「邪馬台国(やまた=金)」と結びつくと考えました。


先々月、後恵比寿っさんが投稿された「ジパングの海」横瀬久芳著を読み、九州鹿児島の菱刈金山(現在日本一の金の採掘量の鉱山)の存在を思い出しました。

鹿児島県には串木野鉱山、山ヶ野金山、大口鉱山と十指に入る大規模な金山が集中しているということを考慮すれば、魏志倭人伝の言う「邪馬台国(=金)」は、この鹿児島を示していた可能性もあると考え直しました。


この菱刈金山の近くにも山田という地名のあることも知り、霧島、吾平(ホツマツタヱの29綾、大隅半島中央部の鹿屋市吾平山上陵、みおやあまきみ:神武天皇のお父さんを祀る)の近くでもあり、神武天皇のお妃、あびら姫の出身地であることにある結びつきを感じます。


更に、ホツマツタヱの38綾には、九州へ景行天皇が熊襲征伐に行ったとき、平定するため6年間滞在しており、その時「みはかせ姫」を内妃に迎えており、皇子を生み、母と子供はこの地に留まって日向の国造の祖になったとあります。

景行天皇が帰られた後に、この地を治め、女王国と呼ばれていたとも考えられます。


その他、九州には「かんかし姫」、「はやみつ姫」、クマソの妹の「へかや」、「やつめ姫神」(みね国・吉野ヶ里遺跡)など、女王支配の国が多く見受けられます。


仙台、日高見を女王国と見るには無理のような気がします。ホツマツタヱを全て読み切った時点で新たな解明が生まれることを待ちたいと思います。


いずれにせよ、鬼道を占ったとされる女王・卑弥呼は当時伊勢に居られた斎女(日の皇女・ひのみこ」「やまと姫」に合致すると考えられます。伊勢には「日読みの宮」という暦を作っていた宮の存在が記録されています。

北極星が36度の高さの所に一年間通して位置を変えずにいるという内容の記述(23綾)もあり、既に天文観測が行われていたと思われるからです。


次に、「やまたのおろち」の補足の件です。

この「やまた」にも同じ「山の宝・金、銀、銅、鉄」の意味が隠されていることにも気が付きました。そこで、「やまたのおろち」の「おろち」とは大蛇の仕業として恐れらたことを擬人化して言っていることと理解できます。鉄であり、鉄豪族であり、鉱毒であることが分かります。


それは、鉱山での鉱毒による原因不明の大量死があったことを意味しており、誰も見たことの無い「おろち」の仕業として恐れられたと考えられるからです。

ホツマツタヱの9綾の前半部分に、「おろち」の正体が分かる記述があります。この「おろち」の行動として、獲物を狙って食い殺すという記述もありますが、前後関係をみれば、表現の一つとして分かりやすくするために使っています。


決して本物の大蛇でもないし、「おろち」なる人物(鉄の豪族主)が武器を使って殺しているわけではないことが分かります。

「そさのお」と結婚することになった「おろち」に狙われていた「いなだ姫」の様子ですが、高熱の病に苦しんでおり、今にも「おろち」に食われようとしている。とか、手や足を撫でる介護をしていたという記述からは、豪族の主(鉱脈の地主)から、逃げ出すことのできない鉱毒に遭っていた鉱山労働者であったのではないかと考えられます。


「いなだ姫」の他の姉妹7人は既に「はは」や「かがち」の餌食になってしまって、「つつが」されているとあります。


「つつが」と昔の牢獄のことで、がんじがらめにされている、つまり、鉱山の中で強制労働させられていたことを言いたかったと思えます。「つつがなく」という言葉が今に残っています。

ここでの「はは」は大蛇のことで鉄を示し、「かがち」とは、錦蛇のことで金、銀、銅など光り輝く金属のことを示していると思われます。


溶鉱炉から鉄鉱石が溶けて鉄になり、水銀のように液体となって流れ出た様子は、蛇が勢いよく、にょろにょろと動いているように見えたからだと思います。


「そさのお」が、「いなだ姫」を「おろち」から助ける行動の記述が興味深いものになっています。それは、「いなだ姫」を隠して、「そさのお」が女装して病んだ「いなだ姫」になりすまし、「おろち」が出てくる山の中の「桟敷」に酒を用意して待ちかまえます。


ここに、「やまたかしらのおろち」なるものがあらわれて、酒を飲み干してしまい寝入ってしまいます。すかさず、変身していた「そさのお」がずたずたに斬りました。


この後、「おろち」の緒の先から剣「ははむらくもの剣」の出現とあります。「おろち」と称されるこの地の鉄豪族の主(鉱脈・製鉄炉の主)が、鉄を溶解して剣を作っていたことが分かります。


「むらくも」とは、たたら製鉄による鉄を溶かすため大量の木を燃すとき炉から立ち上がる煙のことで、この煙こそが鉄を精錬している証であり、権力を示すものであったと考えられます。24綾では「むらくも」という人の名も出てくるのですが、関連が今一分かりません。

後日の宿題!


(ジョンレノ・ホツマ 2014年9月10日)

ゲーム脳


“ゲーム脳”という言葉が話題になったことがある。人の思考や運動を制御する脳の重要部分を「前頭前野」といい、そこから出る脳波にα波とβ波があって、睡眠中や安静時、運動状態のときはα波が、読書や勉強など頭を使う状態のときはβ波が多く出るという。しかし、コンピュータゲームをしているときの脳からはβ波がほとんど出ていない。つまり、ゲームに使うのは脳の視覚や手足を動かす運動回路だけで思考や判断を司る部分を使わないから、子供の脳の発達に良くないというのである。


この説には反論も多いが、最近、文部科学省が実施した小学校高学年や中学生を対象にした全国規模の学力試験でも、長時間携帯電話やゲームをする子とそうでない子の学力に明らかな差が出たそうで、文科省のデータを信じれば“ゲーム脳”になりやすい子は勉強もできないし、飽きっぽくしかも切れやすいなど評価は低い。


一方、スポーツやダンスの場合、一流の演技を毎日ビデオで見ているとその動きをイメージできるようになり、いつの間にか体で覚えて上手になるという。実際、水泳でもゴルフでもテニスでもビデオを見せるレッスンが必ずあり、一流選手のフォームは美しくスポーツ力学にかなっているので、同じようにやれば上達する可能性は高い。それこそまさに“ゲーム脳”効果ではないのか。


頭脳が未発達な段階で人間の基本的な思考力や判断力の形成を妨げるようなことは良くないし、脳が発達しないまま成人になることも好ましくないが、勉強は苦手でもスポーツや音楽は得意という子供たちもたくさんいる。そんな子たちには堂々とゲームをやらせて基礎体力と同時に頭脳も鍛え、別な面から学力向上を目指すといったマルチな教えかたができないものだろうか。


学校教育にコンピュータが本格的に導入され始めた2000年頃だったか、ある工業高校から簡単な製図の本をつくってほしいと頼まれたことがあった。工業高校だけにパソコンを使った最先端の製図教育をしていたようだが、よく聞いてみると学生は授業でビデオを見せるとすぐ理解するが、すぐに忘れてしまうという。


 スポーツと違って何かを勉強しようとするときは、個人差があるから一概にはいえないだろうが、眼から入る視覚情報だけというのは意外と記憶に残らないようで、だからその学校ではビデオを使って授業をした後、同じことを製図板で実際に腕を動かして描かせ、さらに本で復習する“マルチ学習法”にしたら学生たちの理解も深まり、それまでの半分の時間で習得できたそうだ。


東北大学学長を務めた著名な電気学者の西澤潤一氏が痛快な話を書いている。


世界的な金属学者、本多光太郎の小学校時代の学業評価は「魯鈍」(ろどん)。この評価は「白痴」「痴愚」の次で、とても出来が悪かった。そして付いた綽名が“二本棒”。鼻水を二本垂らしたまま一冬過ごしたからという。そんなことをあちこちの講演会でしゃべったら、あるとき本多の遺族にばったり会い、「うちのお爺ちゃんはあんなに馬鹿じゃなかった」と吊るし上げられたそうだ。


それはともかく、その後の本多は兄の支援もあって中学、高校と次第に才能を開花させ、東京大学に進んで創立したばかりの東北大学に移り、KS鋼を発明する。そして学長にもなり、文化勲章を受章するが、小学校時代の教師はもちろん級友でさえ後世の本多を想像できた人はどれだけいただろうか。人の真の能力や天分を見抜くということは本当に難しい。


これだけコンピュータが発達した時代に、子供に携帯電話を持たせないとかゲームを長くさせないとかは親の躾の問題である。そんなことよりも子供の無限の可能性を信じて、“ゲーム脳”を生かした新しいマルチ教育法を考え出すほうがよほど未来的なテーマではないのか。


(本屋学問 2014年9月10日)

「戦争」と「防衛」の関係


あちこちで報道されていることだから改めてここに書くこともないが、朝日新聞の“懺悔”には驚いた。といっても同紙の虚偽報道は何十年も前から半ば公然の事実だったから、ついに甲を脱いで降参したことに驚いた(言い訳がましくて素直な降参とは言えないが)。 


戦後70年。一部の近隣諸国は戦前のわが国のように国家思想で言論を封鎖しながらせっせと軍備拡張に励んでいる。その危なさを非難しながらも、わが日本は言論の自由を確保して70年になると安心しきっている。しかしそう安穏としていていいのだろうか。


戦前は無批判に軍部に協力して国民を煽ったわが国のマスコミだが、戦後の平和国家日本でも朝日のような“偏向”報道がある。これに類した一部のマスコミや知識人が国民をミスリードし、相手を付け上がらせる利敵行為をするあぶなさには今日でも十分に用心する必要がある。


ところで、未来に進んで現在の歴史を振り返ったとすれば、今年は大きな時代の転換点となっている恐れがある。アジアは中国、韓国、北朝鮮の覇権主義的国土拡大策で、戦後かつてないほどの“紛争地帯”の様相を呈してきた。民族紛争の戦闘が激化する東ウクライナをめぐってロシアと米欧の対立が深刻になっている。同じく民族抗争の戦いを繰り返すイラク国内の一部族を助けるために米軍が空爆を始めた。ロシアと中国が擦り寄り、自由主義社会の脅威となる懸念も生じている。


こうしてにわかにキナ臭さの漂いはじめた国際情勢の中で、日本の立ち位置をはっきりさせなければならない。そのためには、戦争とは何か、国を守るとはどういう意味か、改めて問い直し、繰り返し問い続けなければならない。


さらに、「戦争」と「防衛」については“二元論”的に考えなければならない。戦争は悪だ。戦争をしてはならないという戦争論の前提をもって短絡的に防衛のための戦力保持を否定するのは間違いだ。


悲惨な戦争体験を持つ高齢者の、二度と戦争を起こしてはならないという戦争否定の声は悲痛であり、誰もこれに反論することはできないが、だから軍備反対と主張するのは間違いだ。相当の知識人などにもこれに似た論法を取る人たちがいる。


軍事力を持たない国の発言が国際社会において無力であることは歴史上も現下の国際情勢においても自明の理である。元拓大教授で日本古来の軍事論“闘戦経”の研究者でもある池田憲彦氏は「勝てないまでも負けない軍事力が必要だ」と言う。


たしかに、最低でも「負けない軍事力」、互角の軍事力があって始めて相手にものが言え、戦いを回避できる。つまりは「戦いを避けるための力」が必要なのだ。俗な比喩だが空手などの武道を身に付ける意味に似ている。


こうした二元論で常識的に思考した上で、私は軍備の必要性を痛感するのだが、その主張はひとまず置くとしても、戦争論、防衛論はぜひ二元論的に考えるべきだということだけは、強く主張したい。


二元論で「戦争」と「防衛」について専門家ならぬ一般的国民が常識的に考え、話し合う中で常識的、国民的なコンセンサスを形成していくべきではないだろうか。エセ専門家や偏向マスコミにミスリードされないためにも、ぜひそれが必要だと思う。


(山勘 2014年9月13日)

本気で戦争の意味を考えよう


広島原爆の8月6日、NHKテレビで放映された「白に込めた悲しみ」は、16歳の作品「蓮」で院展に入選し、天才画家と呼ばれ、62歳で没した被爆画家の福井芳郎の話である。余談ながら福井さんは、今私が所属する美術団体で昭和32年に発足した新協美術会の創立会員でもある。


福井(敬称略)は、広島の原爆が投下された直後、1時間後には爆心地でスケッチを始めた。画面隅に8月6日午前9時と記されたスケッチは、朦朧とした中空と地面の間に焼け落ちた建物らしきものが微かに描かれ、手前にはマッチ棒のように倒れた人間が3人と踊るように立つ1人などが線描きされている。広い画面の随所に斜線を重ねただけで表現した、煙か霧か、濃密な空気感の中に被写体のイメージが淡く捉えられている。


番組の中で福井の足跡を追う東京大学名誉教授の姜尚中氏は、このスケッチを紹介する中で、「優れた芸術家が描いたというより小学生が驚くままにこのシーンを切り取ったような絵だ」という。いつかテレビで被爆者の証言を聞いた記憶があるが、そこでは、被爆直後の眼前は真っ白で視界がきかず何も見えなかったという。おそらく福井のスケッチはそんな原爆投下直後の現実をリアルに描いたものであろう。


このスケッチに続く福井の原爆体験の絵は写実的な油絵となる。「驟雨」と題する作品では、死んだ裸の幼子を横にして両手に抱え、ボロ切れを身にまとって絶望と虚脱の中に立つ2人の女性(親子か)の姿が、茶系の強い色彩と荒いタッチでリアルに描かれている。


原爆を離れて、地元の祭りや風景などを描き続け、戦後20年を経て福井は再び原爆に回帰した。その絵は、黒、赤、茶、黄の色で強く塗り込まれた被爆者たち、ある作品では焼けただれた群像が、別の作品では白骨化した群像が、白い背景の中に“浮遊”している。主体たちの色を滲ませて白濁した、それでいて虚無的な空気感を漂わせながら白い光の溢れる背景の中で、被爆者の群像が、見る者に声を上げるように迫ってくる。教授はこれを「魂の行き場を失った人たち」と見て「死者によって描かされた絵ではないか」と語る。福井の弟子で新協美術委員の田谷行平が、20数年にわたるの福井の凝縮された思いを語っている。


今年は、戦後70年目という節目の年である。廃墟と化した国土で産声を上げた子ども達も今年は古希を迎えた。まもなく全ての日本人が「戦争を知らない子供たち」になる。


話は変わるが、理論社創業者の小宮山量平氏に、自伝小説「千曲川」4部作がある。これは、急旋回した時代と戦争の本質を問い続け、80歳を超えて世に出したもの。執筆の動機について氏は「あの(戦場の)地獄絵図を塗り込めるために無尽蔵の素材(マチエール)として動員された「青春」そのものを描くこと」にあったという。


私は「千曲川」への書評ならぬ感想文(エッセイ)を書いたことがある。そのエッセイを読んだ知人の、旧軍人で「軍事原論」の大著を持つ成ケ澤宏之進氏が小宮山氏に送ってくださり、小宮山氏より丁重なお便りをいただいた。2002年11月のことだった。その中に「勇気こそ地の塩なれや梅真白」という深く考えさせられる一句があった。


ちなみに成ケ澤氏の「軍事原論」(戦誌刊行会刊)は、軍事の専門書でありながら大きく紙数を割いて戦争哲学、軍事思想を考察し、戦いを呼ぶ人間の心理・感情を分析し、戦争回避のための仕組みについて考究している。戦争と平和は人類が生きている限り永久に考え続けなければならない命題なのかもしれない。


(山勘 2014年9月13日)

目と耳と頭の衰え


ふと気がつけばこのところ本を手にする時間がめっきり減っている。いろいろ急ぎの雑用に追われるせいでもあるが、目の衰えが主な原因だろうと思い当たった。細かい字、特にルビや注記の小さい字は判読しがたい。


周りが薄暗いと紙面全体がぼやけるし、逆に明るすぎると目が痛む。読書専用のメガネを作ったが、これでも周囲の条件が整わぬと読みにくい。何やかやと読書環境について注文が増え、つい本を手にするのが億劫になるのだ。


目医者で診てもらったら、「白内障が少し出ているがまだ手術はまだ早い、それより右目の緑内障の進行を止めるのが先だ」と言われ愕然とした。数年前から妹が緑内障に悩み、遺伝性だと聞かされて、「いつかは自分も?」と心配していた。レーザーで虹彩に穴を開け、眼圧を下げる処置をしたが、あまり効果なく、二種類の点眼薬を併用して、やっと眼圧が下がり始めた。今月も努力して何冊か読み始めたが、いずれも書感を書く気になれず、本エッセイでお茶を濁す次第。

目から入る情報が減れば、次に頼りにするのは耳だが、こちらも老化が始まっている。実は昨年あたりから耳の衰えを自覚するようになった。テレビやビデオのせりふが聞き取れぬことがある。「難聴の初期か?」と当会で話題にしたところ、致智望さんは「最近のテレビはコストダウンのため音質が悪い」、山勘さんは「役者の滑舌が悪くなった」と応じる。ご両人のコメントで少し気分が楽になったが、やはりなんとなくすっきりしない。


そのうち専門医に診てもらおうと思いながら、アーケード商店街を散策していたら、とある眼鏡屋に「無料聴力測定」の看板が掲げてあり、店員に誘われるままにテストを受けた。「只だからちょっとピーピー音を聞かせる簡易検査だろう」と思ったらこれが大違い。ヘッドホンを装着して防音ブースの中に座らされ、かなり長い時間を掛けて行う本格的な検査だった。


先ずはお決まりの周波数を変えながらの聴力テスト。ブーからピーまではよく聴こえるが、シーになると弱くなる。その後で数字や文字、短い単語などのテストが続いたが、これは初めての体験だ。ヘッドホンから聞こえる声をそのまま真似て発声するだけなので、これは簡単と始めたが、途中二三箇所、「エッ、今なんて言ったの?」と聞き返した。


さて、結果を見ると、聴力は低い周波数領域ではまだ健全。3kHzあたりから落ち始め、6kHz以上では明らかに低下していることが分かった。音の意味の理解度はまずまずとのこと。「では、補聴器を使えば問題解決か?」と聞くと、「まあ、今よりはよくなるでしょうが・・・」と歯切れが悪い答。どうやらまだこの程度では劇的な改善効果は期待できぬらしい。もう少し衰えが進むまで待つことにしよう。


帰宅後、聴力について少しばかり勉強してみた。会話エネルギーの大半は2.8kHz以下に集中しているが、子音は7kHzあたりまで聞こえぬと判別し難いそうだ。また、それが欠落した状態で音が連なると理解度が低下する由。


視野の欠落した人も、足りない部分を脳が補うので、見えないことに気がつかぬそうだが、聴力についても、同じことが起きるのであろう。つまり子音が聞こえなくても、前後関係から単語や文章が再現されるのだ。知性が高く語彙の豊富な人ほど、会話の前後から言葉を類推できるので難聴と気付き難いとのこと。よって、聞き慣れない外国語や、初めて出会う単語は理解しがたい。最近DVDで映画を見るときは、字幕付きのオプション選択があれば、必ずそれを選択している。字幕を見ていれば早口の長せりふも理解できるが、それが無いと同じ場面を二度三度プレイバックすることになる。


音は聞こえていても、意味を解析する頭のコンピュータの処理速度が低下し、リアルタイムで応対できぬときもある。冗談を聞いても一瞬で理解できず、しばらく反芻して意味が分かるが、もう応答のタイミングを逃している!先天性視覚障害者が手術で目が見えるようになっても、色や形が何を意味するか学習・訓練を重ねないと分からぬそうだ。音の理解も似た話か。


加齢と共に感覚器官も脳の活動もスローペースになるのは悲しいが、この世の定めと受け入れるより仕方ない。

(狸吉 2014年9月16日)