例会報告 |
第32回「ノホホンの会」報告 2014年3月17日(月)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問) 今回は時節柄、インフルエンザ、年度末の多忙など、狸吉さん、致智望さん、高幡童子さんの3人が欠席という異例の寂しい会になりました。投稿もその分少なかったのですが、俳句の話、川柳の話、古代文明の巨石の話と、じっくり議論ができました。 次回はさらに活発な投稿、ディスカッションを期待しています。 残念ながら参加できなかった致智望さんのネットエッセイ「デジタル家電」は、次回に発表をお願いいたします。 (今月の書感) 「四季のうた―詩歌の花束」(恵比寿っさん)/「古代世界の超技術 あっと驚く「巨石文明」の智慧」(ジョンレノ・ホツマ) (今月のネットエッセイ) 「続 天照神」(ジョンレノ・ホツマ)/「文化国家に不要なアナウンス」(恵比寿っさん)/「趣味」(本屋学問)/「変わらないものと変わるべきもの」(山勘) (事務局) |
書 感 |
四季のうた―詩歌の花束/長谷川櫂(中公新書 2014年2月25日発行 本体760円)
1954年熊本県生まれ 朝日俳壇選者、季語と歳時記の会(きごさい)代表。 東海大学文芸創作学科特任教授、俳句結社「古志」前主宰。 「俳句の宇宙」でサントリー文芸賞(1990年)、句集「虚空」で読売文学賞(2003年)を受賞。 2004年から読売新聞で詩歌コラム「四季」を連載中。 プライベートで「ネット投句」「うたたね歌仙」を主宰 東日本大震災を受けて2011年4月に「震災歌集」2012年3月に「震災句集」を刊行。
・句集 「長谷川櫂全句集」、「新年」、「富士」、「柏餅」 ・随筆 「俳句的生活」「和の思想」「国民的俳句百選」 ・観賞 「四季のうた」シリーズ ・俳論 「古池に蛙は飛び込んだか」、「『奥の細道』をよむ」、「子規の宇宙」 ・入門書 「一億人の俳句入門」「句会入門」「一億人の『切れ』入門」
帯には ことばの花咲く国に生まれて、花を摘むように、日常の彩りを詠んできた古今のうたが、人々の営みに輝きをあたえる…と書かれている。
ジャケットには 春夏秋冬、巡りつづける季節の移ろいを、わずかな言葉で瑞々しく描き出すのが、俳句であり、短歌である。
本書は、俳人である著者が、その折々に平生の景色を鮮やかに切り取った古今の俳人歌人の作品を紹介し、解説を付したものである。そこで気付かされるのは、日常を塗り替える現代の句歌の清新さと私たちと変わらぬ古人の心の機微であった。読売新聞連載コラム「四季」の2012年4月から1年分を採録。
まえがきに相当する個所は 問答としての詩歌 となっていて次のように書かれている。 (歌人の岡野弘彦さんが)「短歌より俳句の方が起源が古い」と言われて驚いた。この国の詩歌としては先ず和歌(短歌)があり、和歌から連歌が生まれ、これが「俳諧の連歌」となって、その発句が俳句となった、というのが日本文学史の常識だからである。しかし、見方をちょっと変えると、この常識はたちまちぐらつく。
古事記には 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 小碓命 かがなべて 夜には九夜 日には十日を 御火焼の翁
この問答は連歌の起源とされているが、どちらも五・七・七であり俳句によく似ている。俳句の起源と考えることも出来るだろう。和歌よりも古い、少なくとも同じくらい古いということになる。近代以降、日本の詩歌は西洋を真似て孤独になろうとした。 しかし、近代の俳句短歌の根底にも古代以来の問答が脈々と流れているだろう。そうした視点で読みなおして貰えるなら、詩歌の世界は一段とひろがるのではないだろうか。―
昼食に寄るバーミヤンには読売新聞が無料で置かれていて、コラムを覗いていましたが、たまたま書店で発売早々の本書が目にとまったので買ったものです。
このタイトルはシリーズもので、中公新書から既にカラー版とか日めくりとか出ていると初めて知りました。座右に置き、ぱらっとめくり、ときどき詩歌の世界に浸かりたいと思っています。
私は昔から俳句に興を持っていたのですが、なかなか手つかずで今年は一念発起、毎日1句をノルマにして、日記帳の最終行に記しています。実は2002年ころから温泉に行くと必ず1句を駄作していました。
五・七・五という韻を踏んだ語調は、日本人には何とも言えない文化の原風景があるように思います。今はスマホで季語が検索できるのも、私のような無精者には恵まれた時代だと言えます。即ち、歳時記を持ち歩かなくても良い時代の到来です。
私の句風は正統派(?)で、正岡子規から流れる近代写生俳句を自認しています。 今は未だ、句会への参加や投稿等は考えていませんが、いずれ「ワークシフト」ならぬ「趣味シフト」を強いられる時が来る時に備えているのかも知れません(無意識のうちに)。
(恵比寿っさん2014年3月7日) |
古代世界の超技術 あっと驚く「巨石文明」の智慧(志村忠夫 講談社)
本書は、同著者の「古代日本の超技術」の姉妹編です。幾つか、気になったものを取り上げてみました。
古代インカの巨石の精巧な石組み技術について 姉妹編での古代日本の縄文時代の翡翠に精巧な穴あけの技術を思い出しました。
翡翠の穴あけは、錐にあたる材料はそれほど硬度を必要とせず、スラリー(研磨剤・翡翠の粉末と同程度の硬度のものと水)で加工していたことを確かめられておられた。
古代インカの巨石は、大きさ形状は全く違うが、石の接触面はカミソリの刃すら通さないほど精巧にできており、石の接触面を密着するまで研磨加工していたことが確認されており、工法こそ違うが同じスラリー(研磨剤と水)を使って接触面を仕上げていたと著者は推測しています。
クフ王のピラミッドについて 形状:今まで誰しもが正4角錐と思っていたが、中央部が少し括れた変則8角錐になっている。1年に2回、春分の日と秋分の日にのみ数秒間、北斜面の半分に光が当たり半分は陰になる。最初の6ヶ月は北側の斜面が全く影になって、残りは北斜面にも光が当たる。陰によって冬至や夏至も分かる。これは、メキシコの神殿のピラミッドでも方法は違っていても暦・太陽の変化が生活に如何に重要であったか分かります。 耐荷重:ピラミッドはなぜ潰れないかという疑問に、見馴れていたため疑問に思わなかったのですが…
平均2.5トンの石塊が2百数段にわたって計200万個も積み上げられ、総重量は670万トンと推定されている。しかも、内部の王の間のように空間は、50トンを超える巨大な花崗岩で重量拡散構造という方法をとっており、これは日本の五重塔の木造建築で上部構造の重量を分散する垂木に相当している。
応力は1m2あたり最大400トンの荷重で、花崗岩は1cm2あたり1トンくらいなら耐えられるので余裕である。しかも、石だから重たいと思っていたが、普通の花崗岩の方が、アルミより軽いことも知った。どのように積み上げていったかいろいろ解析されているが、意外に軽い素材であることを認識しました。
マヤ文明の暦について 地球の公転周期として、365.2420日を算出しており、現在の最先端の数値と比べてもわずか0.0002日の誤差。
月の公転周期については、29.53020日と算出、これもわずか0.00039日の誤差。望遠鏡などの観測手段を持たなくて肉眼で天体を観測していたことになる。 その他、地上から見た金星の1年は584日で、5年が地球(365日/年)の8年分にあたるという 「584×5=365×8」という書き方で記されている。最小公倍数・最大公約数の計算ができ因数分解などの数学的知識があったと思われています。
古代のどの世界でも暦の複雑さに苦労していたことが分かるだけに、精密な観測・解析に驚くばかりです。
古代ローマのコンクリート技術について 現在の鉄筋コンクリートの耐久性は50年~100年しかなく、アメリカシアトルマリナーズのキングドームスタジアムは1976年にオープン、24年後の2000年に老朽化で取り壊した。原因は鉄筋の腐食。現在のセメントは水と接触すると非常に激しい化学反応(水和反応)が起こり、熱を発生し、セメント水和物が生成され、これがコンクリート中の砂や砂利を糊のように固く結びつけて強固な塊にする。
一方、ローマンコンクリート(古代ローマ時代のコンクリート工法)のパンテオンは、2000年前のものが今なお健全、鉄筋は使っていないとのこと。いろいろな工法上の違いがあるが、消石灰と混和材が徐々に反応して、カルシウムシリケート水和物などを生成。この反応は、消石灰と骨材間でも起こり、生成された水和物がコンクリートの耐久性や水密性を高める。同時に、消石灰の炭酸化、硬化が徐々に進み、長い時間をかけてゆっくりと強度が現れていく。養生の考え方も今とは違っていた。まことに不思議なことに、ゲルマン民族の大移動により、西ローマ帝国が滅亡すると同時にこのローマンコンクリートも忽然と歴史の舞台から姿を消している。
日本を代表するコンクリート工学専門家の故小林一輔氏が、山陽新幹線の高架橋の早期劣化をきっかけに、コンクリート文明史の中で「コンクリートの品質の問題は、コンクリート構造物を作る土木技術者の資質の問題であった」という嘆息が著者には印象的であり悲痛でもあったと結んでいます。日本の古代の木造建築を見るたびに思い起こすことと同じだと思いました。
(ジョンレノ・ホツマ 2014年3月12日)
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エッセイ |
続 天照神
ホツマツタヱは5・7調の歌で、同じような内容のことがあちこちに点在しており、正しく理解するのが困難な所があります。そこで、天照神の誕生までの経緯と背景の部分を拾い上げ一つの図表に展開してみたところ、今まで曖昧であった関連が明確に見えてきました。
天照神を大文字に区別し、天照神誕生までを中心にして展開したものです。特に、図右上の方の「タカミムスビ5代目」別の名を「タマギネ・トヨウケの神」(豊受神)が、天照神誕生のキーパーソンであったことが読み取れることです。
天照神を生んだ「イサナギ」と「イサナミ」の二人を、仲人を通して結びつけた方であったこと。「ワカヒト」が天なる道を「タカミムスビ」から学んで、後に天照神になったこと。
「トヨウケ」(豊受神)は、伊勢神宮の外宮の御祭神です。現在は、食物・穀物を司る神様となっています。
これは、ホツマツタヱは漢字文化の到来以前の古代のものですが、後に漢字が到来し、「トヨウケ」という音に豊受という文字を当てはめたために意味が限定されてしまって現在に至ったものと考えます。
更に、この「トヨウケ」の居られた日高見(仙台付近)という地が、当時の日本の文明の中心であったことも推測できます。
ここでは、まだ解き明かし切れませんが、「仙台」を、音読みでなく、古代に呼ばれていただろうと思われる訓読みで読んでみるとどう読めるでしょうか?
真実は仮説より奇なり!謎解きがますます楽しくなります。
(ジョンレノ・ホツマ 2014年3月3日) |
趣味
「趣味」を辞書で引くと、「専門としてではなく、楽しみとすること。余技、ホビー」とある。でも、世の中には薀蓄豊かで博物館なみのコレクションを持つ人、玄人はだしの絵を描く人、プロ顔負けの楽器演奏をする人、それが専門でも十分やっていけそうなほどの才能を見せる人がいて、つくづく天は二物も三物も与えるものだと感心する。
さて、私の趣味はといえば、出版という仕事柄、読書は別にして、止めて久しい模型づくり、道具だけ揃えた日曜大工、終わって仲間と飲むほうが楽しいテニス、CDや放送で楽しむ程度のクラシック音楽、カラオケの股旅演歌と、どれもこれも中途半端で人様に自慢できるようなものではない。
私のような仕事をしていると実にさまざまな分野の人と出会うので、少しだけ雑学が身に付くものだが、子供の頃からまったく興味がなく、したがって知識もないのが植物である。私にとってこの方面は文字通り“菽麦を弁ぜず”の世界で、とにかくスギとヒノキの区別がわからない、季節の花の名もいえない、大好物の南京豆も最近まで枝豆と同じように枝に生ると思っていたくらいである。
イヌノフグリだけは、ある本で知ってその名と花のあまりのギャップに、一生忘れられない花になった。一説にはあの牧野富太郎博士がネーミングしたそうだが、実の形をそのようにイメージした博士のユーモアのセンスには脱帽だ。それにしても、なぜイヌだったんだろうか。
実家が農業だったという友人が、自宅近くに広い家庭菜園をつくった。本職はコンピュータ技術者だが、週末は農作業に精を出している。季節ごとの実りをいただくことがあるが、これがなんとも美味い。
酒が入ると「土を掘り起こさないと」、「種を蒔く時期になった」、「そろそろ収穫だ」と日焼けした顔で語る人生の達人の表情には農業への熱い思いが満ちていて、いつも大いに刺激を受けている。よく考えてみると、農業こそものづくりの原点ではないのか。
大根、白菜、レタス、ネギ、ニンニク…、自慢の収穫をたくさんに頂戴したことがある。少し育ちすぎたのも混じっていたが、何といっても新鮮である。土から引き抜いたばかりのネギは太く見事で、一皮剥くと白くて艶があり、友人は焼いて食べるといいといったが、白菜と一緒に鍋に入れてみた。ちょうど飛騨高山から送られてきた名産のネギにも劣らない、甘く豊潤な味がした。
開きすぎたレタスの外葉は細かく刻んでベーコンと炒めたが、歯応えがあってビールにとても良く合う。辛味が特徴という大根は、すり下ろして焼き魚に添えたり、煮て食べた。小振りのニンニクは焼いたり油で揚げたりして、これも格好の酒の肴になる。
暖かくなったら種蒔きや苗植えにも誘われていて、これから本格的に野良着や長靴を揃えてみようかとも考えている。それに土や肥料の勉強もしなければと、書店に行けば園芸書や料理本コーナーも覗くようになった。
というわけで、今年は新しい趣味が一気に増えそうだが、生来が横着な私には、草取りや水遣りをしている自分の姿がどうしても想像できず、またまた中途半端に終わってしまいそうな気配はある。
(本屋学問 2014年3月7日) |
文化国家に不要なアナウンス
JR三鷹駅構内でのアナウンス 「お客様にお願い致します。駅構内を走るとたいへん危険です。他のお客様を巻き込んでの事故やトラブルになることもありますので、おやめ下さい」と若い女性の声で、繰り返し放送されています。
この時間帯、私が下車してから改札を出るまでの時間に2回も聞くこともあります。2分おきくらいに繰り返し放送しているようです。
このアナウンス、聞くたびに虫唾が走ります。日本の良識あるお客様は、こんなこと言わなくったって、整然と乗車しますよ。
何故気分が悪くなるかと言えば 1.朝の6時半ごろのアナウンス 空いてるのでこんな放送は要らない。中にはたまに急いで走る人もいるが。尤も、ラッシュアワーには混雑していて走れないから、こんな放送はしないのかな。夕方は聞いたことがない。
2.この放送は「お願いではない」 語調も含めて、お願いして協力を仰ぐという姿勢でない。命令調に聞こえる。「おやめ下さるようご協力をお願いします」とか言うのだったら、気持ち良くお客も聞いてくれるように思う。
「おもてなし」を標榜する国の公共機関におけるアナウンスとして恥ずかしいと感じました。
3.リテラシー不足 若い女性に任せて、アナウンス内容まで任せっ切りにしたのかもしれないが、もう少し気のきいたアナウンスにして欲しいですね。
リテラシー不足と言えば、以前私が住むマンションのエレベータ内に次のような張り紙がありました。
「閉じこもりが起こった場合は、インターフォンで管理人室へ連絡して下さい」と。 笑っちゃいましたが、さすがに誰かが指摘したのでしょう。「閉じ込められた場合、」と修正されました。これは若い母親が書いたものと推定していました(子供会の掲出)。
(恵比寿っさん 2014年3月7日) |
変わらないものと変わるべきもの
人の言動はコロコロ変わる。大げさに言えば国民の言動も国家の言動もコロコロ変わる。近頃の人気投票的な選挙やら、政治、経済、外交に関わる偉い人たちの定見の無さや右往左往の言動をみているとそんな気がしてくる。
まずは安倍首相、元気なのは結構だが、ハイテンションな言動が危なっかしい。憲法の解釈変更に関して「最高責任者は私だ。私が責任を持つ」と国会の場(2/12)で高言。解釈変更に“突進”しそうな高姿勢が危惧され、つねに独走気味で党の意向を軽視しがちだったこともあり、おさまりかけた靖国参拝まで蒸し返されて、党内の首相批判が噴出した。
ところで、政治や経済は人間がつくったシステムだから改変されるとしても、お国柄や文化はそうやすやすと変わることはないと思いがちだが、これも違う。日経新聞の連載「熱風の日本史-第22回」(2014/1/26)では、江戸時代まで中国を儒教の先生にしていた日本が、明治維新と日清戦争以降はコロリと中国蔑視に身を転じた経緯をまとめている。
明治維新で自信を深めた日本は意気軒昂。かの福澤諭吉先生が「脱亜論」で中国(当時は清)は相携えて欧米に対抗する友邦に値しない「悪友」だといい、憲政の神様といわれた尾崎行雄は「支那は固陋の国」だといい、にわかに中国蔑視の風潮が蔓延し、国民もすっかりその気になって浮かれ、やがて日清戦争に突入する。ただし、勝海舟などは、真の敵である欧米列強ではなく同じ東アジアの清と戦うのは「名分が立たない」と批判し、明治天皇が「不本意なり」と日清戦争勃発に不満を漏らされたことも忘れてはなるまい。
お国柄や文化を形成する言語の“用法”も国によって違うらしい。「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」(ガイ・ドイッチャー著、椋田直子訳)によるとユダヤの教え「タルムード」は、使うに値する4つの言語として「詩歌のためのギリシャ語、戦いのためのラテン語、悲嘆のためのシリア語、日常会話のためのヘブライ語」があるという。またヨーロッパ語に堪能だったローマ皇帝カール五世は、「神にはスペイン語、女にはイタリア語、男にはフランス語、馬にはドイツ語」で話すといったという。語学に弱い当方でもなんとなく分かる。
理屈っぽいドイツ語で馬に語りかけても馬の耳に念仏、馬耳東風だろう。逆に日本語は、非論理的で情緒的だといわれる。右とも左とも取れるところが欧米人にとって解かりにくいわけだが、これが日本的な文学世界・精神世界を描写するのに向いているともいえる。
お国柄といえば、日経新聞の平田郁夫氏は、国によって資本主義の“店構え”が違うという(同紙2013/12/23)。すなわち、米英は競争重視、北欧は高福祉、独仏は公正重視だという。こうした特徴はよく知られるところだが「資本主義の店構え」と捉えた視点が面白い。
そして、東西冷戦が終わって社会主義が土俵を下り、資本主義国同士の競争となって25年が過ぎた今、各国資本主義の“店構え”すなわち特色を保ちにくくなったという。いちばん時代の流れに合いそうな米英流の競争重視も、5年前のリーマン・ショックのようなつまずきをみせた。そこで、日本としてもこれから「どんな資本主義を目指すか」が問われるといい、日本人の危機に対する対応力に期待し、「政府過干渉」を戒める。
となると、やはり変化が必要だ。安倍首相は「いかなる既得権益も私のドリルから無傷ではいられない」と言った。その“安倍ドリル”で、族議員の票田を気にせず農業や医療の“岩盤規制”を破壊してもらいたい。それが日本経済を変革する第一歩だろう。
(山勘 2014年3月8日) |
天照神
おしで文字という古代文字で記されたホツマツタヱには、まだ無視され、拒否され続けている状況のようですが、何年か何十年か先には、いずれ認めてもらえる日が来るであろうと思っています。
歴史学者の方々が、冒頭からホツマツタヱを認めるわけにいかないのが天照神の性別の違いについてだと思います。 ずぅーと、気になっていたことの一つに、歴史で習ったように古事記・日本書紀には天照神が女神として奉られているのが、世間や歴史関係者の常識になっています。しかし、ホツマツタヱでは、れっきとした男神として誕生しています。
よく、歴史は時の権力者の都合で書き換えられるとか、歴史とは勝者の歴史であり敗者の歴史は表には出てこないということを耳にしたことがあります。
なぜ、違いがあるのか、年代的にはホツマツタヱの方が古いため、後からの方で書き換えられたと考えられます。なぜ、書き換えなければならなかったのか?については、日本書紀・古事記が編纂された目的とその時代の背景を見てみると、明らかになってきます。
日本書紀・古事記の編纂された意図を考えると、当時大国であった唐・大陸に日本の存在を認めてもらうためには、当時の公用語であった漢字で書かれた日本を紹介する国書が必要であったと考えられます。
遣唐使に日本書紀を持参したと、どなたかの文献資料で知りました。日本を文明国として、認めてもらうための日本を紹介するものの、その大本になったのがホツマツタヱです。しかし、ホツマツタヱにはあまりにもありのまま書かれていたので、当時中国で儒教が浸透しており、儒教の教えから見て、野蛮人のすることと思われる内容は排除せざるを得なかった経緯があると考えられます。
身内同士の殺し合いとか、近親結婚などの記載は削除せざるを得なかったと思われます。 その結果、文脈が合わずになったりするため、いくつかの細工が必要になったことが容易に推測できます。
一夫多妻について、12お妃を持つこと自体、儒教の教えでは、認められているのかどうか知りませんが、天照神は12名のお妃を持たされていました。 問題点の一つは天照神のいとこ婚です。
最初に生んだ子のお妃はイサナギの兄弟のクラキネの娘マスヒメモチコで、いとこになります。次に生んだ三つ子のお妃はこのマスヒメモチコの妹になるコマスヒメハヤコで、やはり、いとこです。 さらに、この三つ子はソサノオとの浮気の子でもあるかも知れないとあります。
二つ目は、最初から、天照神を女神にするのが目的ではなく、近親婚の箇所を省いても不自然にならないようにと、イサナギ・イサナミの最初に生まれたヒルコ姫・後のワカ姫を都合よく天照神に置き換えることができたからです。
天照神の姉であるヒルコ姫は後に厄もとれ、ワカ姫となります。アチヒコ(オモイカネ)と結婚されてからは、下照姫と名を変えて、自分は引き下がり天照神を名実ともに長男に押し上げた経緯があります。 よって、姉であるワカ姫は妹の立場に退きます。天照神は姉の立場にすり替わり、最初から女神であったということにすり替わってしまいました。
話をややこしくしていることは、最初にワカ姫が生まれたとき、両親とも厄年であったため、川へ流した(儀式ではあったにせよ)とあります。その次に生まれてきた子は流産であったため、川へ流したとあります。その後、苦難の末、待望の日嗣の皇子であるワカヒト・後の天照神が生まれます。 最初のヒルコ姫が生まれたところだけ残して、途中を削除してしまえば、女神の誕生として話がつながります。
天照神が女神になったことで、天照神のいとこであったお妃が引き起こした身内同士の醜い争いなどに直接触れることもなしに、儒教の教えから見ても安泰に編纂できる結果となったわけです。
小生は日本書紀・古事記に精通しているわけでもなく、ホツマツタヱも全て解読しているわけでもないので、今後新たな発見があれば追加訂正させていただくことになります。
なお、伊勢神宮の鰹木の所の千木の説明(36綾)があり、そこの箇所(下記)だけ見ると、天照神が女神と感違いされそうな記述がありますが、詳細は別の機会に譲りたく。
うちみやは きみははのこを めぐるのりかな 内宮は君(天照大神)が、母が子供を慈しむような恵む教えです。
(ジョンレノ・ホツマ 2014年2月12日) |