第16回「ノホホンの会」報告 2012年10月17日(水)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:六甲颪、狸吉、致智望、山勘、ジョンレノ・ホツマ、山口さん、本屋学問) 今回は、新メンバー、山口珪紀さん(次回からペンネームでもどうぞ)をお迎えし、久しぶりの全員参加で賑やかに始まりました。山口さんからは名物“高幡まんじゅう”を頂戴しました。お気遣いいただき、ありがとうございます。いつもの六甲颪さん差し入れのお茶にお菓子と、重ねてご馳走様でした。 世相を反映してか、このところ話題の中心は無能官僚と年金問題。書感とエッセイにもそれがよく表われています。ただ、今回は皆さんご多忙のためか投稿数が少なく、次回に期待したいところですが、一つ一つのテーマについてじっくりディスカッションができました。 公務員は失業保険を払っていないこと、国の施設は火災保険に入っていないことを初めて知りました。なお、インターネットで調べたところ、国務大臣は署名した「大臣命令」を官僚に通達でき、それに従わない場合は懲戒免職にできるとのことです。そして、それを最初に執行したのが当時の管厚生大臣で、エイズ関連書類を出させたことは特筆すべきことのようで、つまり、ルール上は、知恵者の国会議員が大臣になれば、官僚機構をうまく動かせるということでしょうか。 (今月の書感) 「音の匙」(智致望)/「官僚の責任」(恵比寿っさん)/「こんにちは、昔話です」(狸吉) (今月のネットエッセイ) 「実名報道」(本屋学問)/「神風の様な台風の進路」(六甲颪)/「マクロビオティックとホツマツタエ」(ジョンレノ・ホツマ)/「再言・繰り言『年金制度』(加筆再録)」(山勘) (連絡事項) 次回は2012年11月16日(金)午後3時~、三鷹SOHOパイロットオフィス会議室です。 会当日の訂正を一部反映したホームページ用投稿原稿を添付します。さらに訂正があれば、ご面倒ながら赤字などを入れて返送ください。それを最終的に掲載します。 (事務局) |
書感 2012年10月分 |
音の匙/山口 孝(ステレオサウンド 定価1,905円) 本書は、音楽、オーディオ、を題材とした随筆集である。著者が、ヨーロッパを自己研修に歩いていたときの事柄、コンサートでの感激、レコードを聴いての感傷などを集めた随筆集である。 内容は、一寸キザなところがあるが、著者の経歴からみると本人にキザの意識は、文章の表現ほどには無いと感じる。著者の経歴であるが、10代でクラシック・ギターを学び、20代でジャズ・ピアニスト、オーディオ販売店員、米国大使館勤務を経て、1994年から写真家・文筆家としてスタートし、ジャズ評論や写真集を上梓しており、そりなりの経歴で活躍している。 本書の中には、クラシックを含めたオールジャンルのレコードを聞いての感傷が記されているが、どちらかと言うとジャズや外国の民謡に興味の主体があるように思う。しかし、バッハの音楽には異常な知識と理解力を持っているようで、この点私の趣向に似ていて興味が沸くのである。つれづれの、ヨーロッパの町歩きなど、私が憧れつつも出来ない側面をさり気なく書いているくだりや文学的表現などは、「キザな事、言いやがって」と逆恨み的な感情が沸いてきて、世の中を上手く渡る人間はかくあるべきと思ってしまう。この書は、私に言わせると「金持ちの有閑おばさんだまし」と思ってしまうのであるが、それは私の、無粋な技術屋センスから来るひがみかも知れない。 一寸そのサワリを書いてみると。 半年一年とホテル暮らしをしていると、全くと言って良いほど、レコードを聴く事は無い。音楽を聴くということは、音楽会に行くことであり、当然、生演奏と言うことになる。 ジャズはあまり聴けない。まして、ここフィレンツェのように、ヨーロッパ芸術の源流、本流の本家のような古都では、20世紀アメリカで生まれたジャズの面影など、まるで目に付かない。日本にいるときは、ジャズ漬けになるくらいに聴いていたが、そのあくがすっかり抜けたようになり、いまは、ヨーロッパ漬けになってしまっている。観るもの、聴くもの、食べる物全てが、全感覚に訴えかけてくるフィレンツェの街。身も心も知らぬ間に、赤く染まっていた。それが、文化と言うものであろう。 以上であるが、私以外の人が、この文章をどのように感じるのだろう。「キザなやつだ」と思う気持ちが先行する。とは言うものの、私の知らない、旅行案内書に無い場所などが書かれていて、何か引かれるものを感じつつ読み終えたしだいである。 (致智望 2012年9月22日) |
官僚の責任/古賀茂明(PHP研究所 2011年7月29日初版発行 本体720円) 1955年長崎県生まれ。経済産業省大臣官房付(著作時点。現在は大阪市統合本部特別顧問:恵比寿っさん注) 東京大学法学部卒業後通商産業省入省。大臣官房会計課法令審査委員、産業組織課長、OECDプリンシパル・アドミニストレーター、産業再生機構執行役員、経済産業政策課長、中小企業庁経営支援部長などを歴任。 著書に「日本中枢の崩壊」(講談社)、共著に「日本が融けてゆく」(飛鳥新社)がある。 はじめに 第2章 官僚たちよ、いいかげんにしろ 第3章 官僚は何故堕落するのか 第4章 待ったなしの公務員制度改革 第5章 バラマキはやめ、増税でなく成長に命を賭けよ
内容:「日本中枢の崩壊」の続編と理解したらよいと思います。前著では、東日本大震災で露呈した内閣のだらしなさや官僚の暴走や公務員改革の実態、或いは政治主導の履き違えなどを論じてベストセラーになったが、本書は国家公務員の実態を白日に曝している。国民(納税者)としては必読の一書でしょう。 本書は、優秀であるはずの官僚が何故堕落していくのか、何故省益優先に走らせるのか、など興味が尽きない。第1章では、日本崩壊へのカウントダウンが震災により早まったが、震災への危機以上に政権延命の思いが強かったと思われる菅内閣。東電に逆らえない経産省。被災地のことより大臣の想定問答集が大切な官僚。政治主導を、菅は「すべてを自分で決断すること」と勘違いしてしまった。官僚に仕事をさせるのが政治主導、国民のだれもが理解していることを菅はカン違いした(恵比寿っさんの注です)。 第2章では、原発事故の一因は経産省の不作為にある。かつては電力自由化を推進した局長もいたが(有力な天下り先である)東電の反対で出世の道は閉ざされた。(福島の防潮堤5.7mは、そうしないと浜岡などが安全と言えなくなるので)知っていながら何もせずに来た。東電も政治家も悪いが、官僚の責任は重い。 第3章では、経産省もかつては改革派だった。利権の拡大が目に見える成果。不夜城である霞が関は、仕事熱心さではなく、成果でなく、目に見える基準が労働時間なので、遅くまでせっせと働く。定時後に飲みに出て、それから戻って仕事があり。 第4章では(現時点では、消費増税は決定してしまったが)、増税をやるなら政府や行政が自ら血を流し、痛みに耐えることだが、それを放置してギリシャやアイルランドの財政危機を引き合いに国民の不安をあおり、脅すような進め方をしている(財務省のいいなり、と言うのが恵比寿っさんの印象)。 彼らは、自分たちが血を流すことなく国民に負担を増やすだけである。政治家は国民の審判を受けるが公務員にはそれがない(ギリシャ破綻の要因の1つは公務員の身分制を最後まで温存したこと)。仕事がないのに¥10Mもの年収(ノンキャリア50歳、キャリアなら¥15M)のはおかしい。国民のために働かざるを得ない構造を作れと著者は提案する。国民のために尽くしたら報われず、省益のために知恵を出したら報われる構造を変えるべき。 「国民のために働かないならクビ」が必要。年功序列を廃止し、仕事が出来なかったらクビ。上を空ければ、若手が伸びる。外部(民間)の人材登用も効果。官民の人材移動を自由に。事務次官を廃止し、縦割りでなく横割りにするなど。 第5章では、官僚の「身分制度」が現実にはある。本当に守られるべき人が守られるような制度を目指し、無駄な支援はなくす。現在の中小企業支援は経産省のアリバイ作り、と著者は言う。その他いろいろと提言が並ぶが、「国家の意思があればエネルギー政策は変えられる」は全くの同感。 おわりに 復旧・復興でもなく創造だというが、グランドデザインがないままなので、極論すれば赤字を増やすための戦略なき復旧が行われている。大震災を「消費税増税の絶好のチャンス」とした人たちもいる。 書感: 古賀は優秀な男だと思う、と前著の書感に書いたが、正しかった。冷や飯を喰わされていたが、大阪市長が味方にしてしまった。橋下のために成果を上げると思うが、国家のために働いて欲しい人材である。それこそ、国家中枢の仕事(国家戦略の策定や国民の納得のゆく消費税増税の進め方など)に参画させるべきと思った。 最近の世論調査では民主党の支持失墜と自民党の支持率上昇が言われているが、どっちに転んでも、こう言う基本的なところが改まり、国の発展戦略(経済成長戦略)をキチンと定めないことには、同じことの繰り返しに終わる。真の政治主導(国家戦略スタッフ、内閣人事局、内閣予算局などの創設と活用)の時代に必要な人材であると思う。 (恵比寿っさん 2012年10月10日) |
こんにちは、昔話です(小澤俊夫 2006年 小澤昔ばなし研究所 本体1,000円)
読書の楽しみの一つは、思いがけず新しい世界に入り込むことだが、これもその一例。本書の表題を見て、「ほう、昔話の専門家がいるのか?」と手にとってみたら、これがとても面白い。 著者は口承文学の研強者で筑波大の名誉教授。グリム童話の研究から出発し、西欧の口承文芸理論を日本に紹介し、その後日本の昔話の分析的研究を行っている。 本書は「昔話は語られている間存在し、語り終えたら消える文芸」すなわち音楽と似ている。すべての昔話は一定の法則に従っていると説いている。
昔話の特徴は; 1)簡単で明瞭な語り口:耳で聞かれた文芸なので分かりやすさが大事。 2)時代・場所・人物が不特定な発端句:昔々あるところにおじいさんが…。 3)うそ話であると宣言する結末句:どんとはれ(岩手県)など。(これに対し伝説は本当であることを強調) 4)孤立的な語り:主人公・相手役・敵役はすべて簡単明瞭な単数。(白雪姫の七人の小人はいつも同じ行動をしているので実質的に単数) 5) 極端に語る:色は原色、非常に大きいか非常に小さい(大男、一寸法師など) 6)残酷な表現なし:食い殺す話でも具体的な表現をしない。(リアルな描写はなし) 7)同じ場面は同じ言葉:分かり安い。既知のものと再開する喜び。 8)三回の繰り返し:同じ筋道の話が三回繰り返される。三段跳びのようなリズム感。 などであり、これらは洋の東西を問わず共通している。
昔話はこのような語り口で何を語っているのだろうか?たしかに昔話は「勧善懲悪」の面もあるが、それより大切なことは「若者が成長し変化する姿を語る」ことである。三年寝太郎もついには長者の婿になり、汚いシンデレラも最後は王子と結ばれる。昔話は「子供の成長にはいろいろな形があるよ」と教えているのだ。
昔話の作法をわきまえた目で、現代風に作り変えられた昔話をみると、昔話の作法を無視した改悪に気付く。ディズニーの「シンデレラ」は、城に三回行く繰り返しを一回にしたため、ガラスの靴の伏線が消え失せてしまった由。250万部も売れた「本当は恐ろしいグリム童話」は、「大人の感性で血生臭くエロチックに書き換えた文化的詐欺」と著者は批判するが、本書による視点を得た今、著者の考えに全面的に賛成する。
著者は本書の他、昔話の研究書を多数執筆しているが、本書は前半が講演録であるだけに、話がすんなりと頭に入ってくる。まるで著者の得意とする昔語りを聞いているようだ。入門書として最適と感じる。 |
エッセイ 2012年10月分 |
実名報道
酒に酔った男性がどういうわけか深夜の高速道路に入り込み、走ってきた車に跳ねられて死亡したという記事があった。轢いた運転手の実名と年齢が載っているが、普通に考えれば、真夜中の高速道路を走っていて、まさか酔っ払いが飛び出してくるとは思うまい。そこまで想定して走れというのは、あまりにも現実離れした論理である。運転手は「ハンドルを切ったが避けられなかった」と語っているが、当たり前である。どこの自動車教習所でも、高速道路で歩行者を避けるテクニックは教わらないはずだ。 日本の交通事故は一般的に、どんな場合も車は分が悪い。無謀な歩行者、横暴な自転車、危険なバイクも、車の前では常に被害者である。しかし、このケースでは、跳ねられた人には気の毒だが、それよりも思わぬことで実名を出され、これから一生消せない嫌な記憶を引きずっていく彼のほうがむしろ被害者である。警察は思慮がないから深く考えずに情報公開するだろうが、マスコミはもう少し気を遣ってほしい。 北海道で、女性に悪戯する目的で故意に車で轢くという卑劣な事件があったが、犯人が道内のある町の不動産会社に勤めていたと報道されたために、どこかのアホが偶然にも同じ町の同名の不動産会社を見つけ出し、しかもインターネットで犯人はそこの息子だと電話番号まで載せてしまった。もちろん、事件とはまったく無関係である。 世の中には頭のおかしなのが他にもたくさんいるもので、さっそく抗議の電話が殺到する。その不動産会社はしばらくの間仕事にならず、チラシまで刷って訂正するはめになった。会社が通話を録音した音声がテレビのニュースで流されたが、中年と思しき女が一方的にヒステリックにまくし立てるシーンはなんとも異常で、冷静に対応する社長に対してその女が「あなた、頭は大丈夫?」と言ってのけたのには思わず笑ってしまった。この騒動の発端となった張本人は後で警察が特定し、被害に遭った不動産会社に謝罪して少しは救われる後日談になったが、なんと小学校の非常勤教師だったそうだ。 認知症や寝たきりの介護で心身ともに疲れ果て、思い余って長年連れ添った身内に手をかけるという、なんともやり切れない事件も後を絶たない。事情はどうあれ、故意に人をあやめる行為が許されることではないが、非情にも社会の救済制度のネットワークからこぼれ落ち、極限の心理状態に追い込まれていった悲惨な結末を聞くたびに、私の倫理判断はわからなくなる。しかし、マスコミは容赦なく実名で書き立てる。そしてまた、お粗末な頭で理解に苦しむ社会正義を言い立てるのが出てくることだろう。 情報公開が進んだスウェーデンでは、匿名報道が原則という。かの石川五右衛門は、辞世に“浜の真砂は尽くるとも、世に盗人の種は尽くまじ”と詠んだというが、これからも犯罪がなくなることは決してない。マスコミは、何の知識にもならない実名を出すことより、他に伝えるべきことがたくさんある。ヘンな人たちが引き起こす被害者への嫌がらせのような二次被害を防ぐためにも、実名報道の功罪を改めて考えてほしい。世の中には知らなければならないことがたくさんあるが、知らなくてよいこともたくさんある。 |
神風の様な台風の進路 2012年の気象は、年の初めから異常であった。例年に比べ寒さが厳しく梅の開花も10日から15日遅れていたし、其の後は急に暖かくなり春らしい日和が少なかった。暑い晴れた日が続くと思えば、熱帯地方を思わせるシャワー性の強い雨が降ったりした。そして、梅雨期には真夏を思わせる猛暑が続いた。 その影響からか、台風の発生場所やその進路が例年とかなり違っていることに気付いた。先ず、8月中旬にフィリッピン沖で発生した台風14号、15号であるが、発生時から中心気圧が二つの台風とも900hPaと異常に低く強烈で、しかも其の強さは北緯30度付近になっても緩めず、日本の対馬海峡を北上し朝鮮半島に向かって進んできた。 丁度その頃、日本と韓国の間で竹島の所属問題で韓国が騒ぎ出し、朴大統領は恐れ多くも天皇陛下の本件に対する謝罪を要求してきた。勿論、台風の北上と竹島問題とは関係はないが、日本政府の弱腰にあきれて台風が応援しようとしたのではないかと空想したくなったのは私だけではあるまい。 |
マクロビオティックとホツマツタエ
玄米や雑穀、全粒粉の小麦製品などを主食とする。 野菜、穀物、豆類などの農産物、海草類を食べる。有機農産物や自然農法による食品が望ましい。 なるべく近隣の地域で収穫された、季節ごとの食べものを食べるのが望ましい。 砂糖を使用しない。甘味は米飴・甘酒・甜菜糖・メープルシロップなどで代用する。 鰹節や煮干しなど魚の出汁、うま味調味料は使用しない。出汁としては、主に昆布や椎茸を用いる。 なるべく天然由来の食品添加物を用いる。塩はにがりを含んだ自然塩を用いる。 肉類や卵、乳製品は用いない。ただし、卵は病気回復に使用する場合もある。 厳格性を追求しない場合には、白身の魚や人の手で捕れる程度の小魚は、少量は食べてよいとする場合もある。 皮や根も捨てずに用いて、一つの食品は丸ごと摂取することが望ましい。 食品のアクも取り除かない。 コーヒーは身体を冷やすので避ける。
地球が生まれ、草木が生じ、人の寿命は天地自然の理に従うという話から始まり、健康で長生き出来るように食物の善し悪しの因果関係から諭しています。
稲穂(米、玄米)は太陽の精霊であり、菜(野菜)は月の精霊ですから、これらを食べると目が輝き魂も光にあふれ豊かな生活が送れます。 天照神は食べ物として、鳥、獣(けもの、四足動物)を食べてはいけないという禁止令のお触れを出しています。 魚については、鱗のある魚は良しとしています。魚を食べた時は「すず菜」(蕪か大根の葉か)を3日間食べなさいとあります。面白いのは、鱗の無い魚は臭いと言っているところです。 鳥(水どり)については精が付きすぎてしまうので、清めのために「すず菜」(蕪か大根の葉か)を21日間食べなさい。 獣(けもの、四足動物)の肉を食べたら自分の血肉を縮ませ、体は太って見えても体に必要な活力を大量に消費し、毛も抜け落ち、早死の原因になります。間違って動物を食べた時は大根(すずしろ)を2ヶ月間食べ続けなさい。二文字の獣を食べてしまった時は、3年間、大根と「しらひげ」(芹)と「はじかみ」(生姜か山椒)を食べれば元に戻れます。
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再言・繰り言「年金制度」
この話は以前、『老いの繰り言「年金制度」』として書いた小論の改訂版で、正に「繰り言」である。まず言いたいのは、年金暮らしの高齢者が、なんとなく肩身の狭い思いをさせられる時代になったということである。ヤレ高齢者の年金が多すぎる。高齢者の生活を若者や現役世代が背負っている。いずれ高齢者一人を現役一人が支える“肩車”時代が来る。だから高齢者の年金をカットすべきだ。といった具合にかまびすしい。 確かに元公務員の高齢者などで、目を剥くほどの高額年金をもらっている人もいるが、それはごく少数の人達だ。大半の年金受給者は生活費を補うのが精一杯だ。国民年金などは、長い年月まじめに働いて税金や掛け金を納めてきて、そのあげくに生活保護費の半分にも満たない低額の年金を受け取っているのが実態だ。 ともあれ、安易な増税と“年金いじめ”は困る。年金は社会保障費の中心を占めるが、年金受給年齢に達した人、年金暮らしをしている人には、約束の年金を生涯保障するというのが国家としての責務であろう。支給水準の切り下げなどあってはならないことだ。 年金改革をするなら、極端にいえば、年金制度の改変は年金制度の入り口で、掛け金を払い始める年齢層に対して、新しい制度と支給水準を呈示して納得を得るのがスジではないか。それでこそひと頃の謳い文句「百年安心」の年金制度になるというものだろう。 さらなる問題は、若者が将来年金を受け取れるかどうか分からないからと、年金制度を批判し年金加入を嫌がる風潮が強まっていることだ。 いま、大学を出ても働く場所がないという厳しい現実はあるものの、大卒50万人のうち9万人近くが仕事にあぶれ、そのうち3万人以上の若者が就職の努力もしていないという。これはほぼ働く意志を持たないという無気力グループだ。 また、継続的に企業で働く働き方を拒否して遊牧民的に自由に働く「ノマド」とかノマドワーカーと呼ぶ働き方をもてはやす風潮が強まっているが、学卒無気力グループもノマドワーカーも、国民の義務を回避し、負担と給付すなわち納税と社会保障給付のうち、負担を回避しようとする傾向の強いグループだ。 “自助、共助、公助”というが、当たり前の自助もやらない親のスネかじりが増え、共助の精神も廃れてたとえば高収入のタレントの家族が生活保護を受けていたケースなどが増え、いきなり公助に頼る実になげかわしい状況が顕著になってきた。 昔は、というよりつい20~30年前までは、年老いた親の生活はまるごと子が面倒を見るというのが当たり前だった。育ててもらった親の面倒を見るのは当たり前、離れて暮らす親に“仕送り”するなどもよくある話で、親孝行の精神があった。ところが今はそうした精神が消滅して、親の面倒は国の社会保障にまかせ、将来、自分の年金をもらえるかどうかを心配する情けない時代になった。 こうした年金や社会保障制度の義務を忌避する若者が、将来、生活保護受給者の増大につながる恐れがないとは言い切れまい。 そのことを若者や現役世代に考えてもらいたい。直接、親の生活の面倒を見ないなら、社会全体で、現役世代の手で高齢者の面倒を見るという現在の社会保障制度を肯定し支持すべきではないか。たとえ“肩車”時代になってもその基本思想を持って社会保障制度を維持する方法を工夫すべきであろう。 といった理屈を堂々と強烈に主張していいはずなのに、これは「老いの繰り言」です、などと卑屈な物言いになる情けない世の中になってきたようだ。 |