第1回「ノホホンの会」(現在は仮名称)報告 2011年5月12日(午後2時30分〜、狸吉邸) 旧「本当の本の会」が事情により廃会となりましたが、その後メンバーの皆さんの本に対する熱い思いと会の存続の強い願いが、再び当会を立ち上げるに至りました。そのきっかけは、六甲颪さん、狸吉さん、致智望さんがお互いの気持をメールに込め、本屋学問が加わって1月に集会を開き、直接に顔を合わせてそれを再確認し、山勘さん、ジョンレノ・ホツマさん、恵比寿っさん に加わっていただくことになった経緯は、先日のオープニングパーティでご説明したとおりです。当面はこのメンバーで、旧来に増して豊富な話題と知的興奮に溢れた、さらに特色のある会に育て上げていきたいと考えます。 当初は4月の桜の時期に、新装なった狸吉邸のお披露目も兼ねて開催を予定していましたが、このたびの大地震、大津波、さらに原発事故と未曾有の大災害が重なり、一月繰り下げてようやく実現できました。話題はもちろん原子力発電。その是非論から始まり、日本の原子力行政の問題点、人間の傲慢さ、科学技術の限界と、久しぶりに当会らしいハイレベルの科学論議が復活しました。 第1回の開催にあたり、取決め事項を記します。 ・会長は六甲颪さんにお願いし、会のつど適宜、進行役を兼ねた座長を設ける。 ・開催は原則として毎月1回、できるだけ全員が参加できる日時とする。 ・会場は三鷹SOHO、狸吉邸など適宜選択し、その場合もできるだけ狸吉さんのご負担を軽減する形で使わせていただく(他に公共施設なども選択肢に) ・紹介する本、エッセイは、特定宗教、偏向思想、誹謗・中傷など以外は、分野、内容について基本的に制限を設けないが、投稿文の分量は1回あたり約2,000字以内とする。それを超える長文は、2回以上の連載も可。 ・引き続き「書感」という言葉を使い、エッセイは今後新しい名称を付ける。 ・書感、エッセイは、:各自が当会のメーリングリストに添付ファイルとして投稿し、それをベースに会で披露、解説する。終了後、記録者(本屋学問)が段落や句読点、変換誤字などを編集して一括して狸吉さんに渡し、それを当会ホームページに掲載する。 ・会の記録報告、連絡は原則として本屋学問が担当、恵比寿っさん にお願いする場合も。 今回紹介された書感は、「物理学と神」(六甲颪)、「二酸化炭素温暖化説の崩壊」(ジョンレノ・ホツマ)、「原子爆弾の誕生(上・下)」(本屋学問)、「イタリア通になれる本」(狸吉)、エッセイは「蛍の光、窓の雪」(六甲颪)、「『ほつまつたえ』と古事記・日本書紀の背景」(ジョンレノ・ホツマ)、「原発に付いて思う事」(鈴木)、「日本人と西洋音楽」(本屋学問)、「それでも原発は必要です」(恵比寿っさん )、「活字文化は『死に体』か」(山勘)、でした。各テーマの内容は近く当会ホームページに全文掲載する予定ですが、沢田さん分はご本人の希望で今回は保留とします。 会後は、狸吉さんのご好意で奥様が手によりをかけたお洒落な酒肴、食事と、皆さん持ち寄りの美酒に存分に酔いました。恵比寿ビールで始まり、「八海山」、「天狗舞」、「三諸杉」(いずれも吟醸日本酒)、「待宵」(熊本限定焼酎)と堪能しました。狸吉さんご夫妻、六甲颪さん、致智望さん、山勘さん、ジョンレノ・ホツマさん、ご馳走様でした。宴後に上映したDVD「メトロポリス」は1926年の製作だそうですが、画面が意外に斬新で、エキストラの人数にも驚きました。 (事務局:本屋学問) |
書感 2011年5月分 |
物理学と神/池内了(集英社新書 2002年12月) この本は初版から今日まで19刷を重ねる有名な論文であるが、今改めて読んでみると色々考えさせられるところが多かった。内容の概要としては、西欧での物理学が成立したのはキリスト教の言う教えを弁護し証明するためであった。しかし物理学の理論が整ってくるうちに次第にキリスト教の教えに矛盾が出てきて、却って聖書を疑問視するような問題が出てきた。 例えばアリストテレスの天動説までは大きな問題はなかったが、コペルニクス、ガレリイからデカルトニュートンの世代になると、地動説、万有引力の発見により、天体の運動が数式でシンプルに表現できるようになり、教会派のいう宇宙観についてはその立場はますます苦しくなってきた。 しかし、数式だけで我々をとりまく宇宙の現象を明確に説明できるのはごく一部であって、大部分は自然の中に厳然と存在する神々を否定することは出来ない。 著者の池内さんは、各章に分けて科学者が如何にその後のローマ教会派からの攻撃に対応してきたかを、実例を挙げて説明を加えている。それはマックスウエルの悪魔、永久機関、錬金術、あるいはアキレスと亀や、動く矢は不動である等のパラドックスの論理的解明をどうして説明するのかとの教会派からの攻勢に遭いながら、粘り強く結論を出して来た点を述べている。そして最終的には、宇宙論が科学者の考え方だけでは解決できそうにない多くの問題を抱えていることも示唆している。 この点は私も同感であるし、科学が万能ですべてを説明できても神の存在を否定することができない。其の例を1、2挙げてみると (1)科学的手法を幾ら駆使しても、科学的手法だけでは未来を正確に予想できないよう、神々により制御されているのではないか。「君の寿命はX 年X日です」と言われたら、何もする気はしなくなるだろう。 (2)生物の中で人間だけが生存することは許されない。お互いに生物間の長所と欠点を分かち合いながら、バランスをとって生きている。突出した1種類の生存は神が許さない。
|
原子爆弾の誕生(上・下)/リチャード・ローズ著・神沼二真・渋谷泰一訳(紀伊国屋書店 1995年)
第三は、ドイツ滅亡後の広島、長崎への原爆投下までの戦時下の国際政治と、アメリカ政府、軍部指導者、それに危険を感じた科学者たちの動き。第四は、2つの原爆がもたらした地獄とその後の冷戦下の夥しい数の核実験、その影響による多くの被曝者、さらに平和的利用とされた原子力発電がもたらした深刻な放射能汚染。もちろん、本書には書かれていないが、その後のチェルノブイリ、スリーマイル島、そしてフクシマの原発事故は、まさにリアルタイムで経験している深刻な現実である。
萩原は1941年に「超爆発的U235」について講演し、核分裂と熱核融合の関連について「もしU235が大量に適当な濃度で生産されるのであれば、U235は一定量の水素への起爆剤としても使える」と水素爆弾の可能性についても述べた。日本の核物理学研究が、当時すでに世界的水準にあったことを物語るエピソードといえる。
計画はアメリカとヨーロッパの英知を結集して1942年に始まり、3年後の1945年7月には世界最初の核兵器を完成させたわけだが、ドイツが実現できなかったサイクロトロンや分離管、ガス拡散や遠心分離によるウラン濃縮技術を手中にしたことが、結果的にこの大戦を終結させたことは重要な意味を持つ。まさに不可能を可能にした、まれに見る開発プロジェクトだったのである。
日本語版は1993年に啓学出版から刊行され、その後出版社の事情で絶版になったが、岩波書店など8出版社の共同復刊事業として、原爆投下後50年の1995年に紀伊国屋書店が再び本書を世に問うべく、この改訂新版を刊行した。そうした出版に至る経緯を見るとき、著者の力量や内容はもちろん、翻訳者、出版社、編集者、印刷所が一体となって、まさに出版事業とは何かを見事に具現したケースであり、同じ出版に携わる者として心から敬意を表したい。
なお、同じ著者が「原爆から水爆へ」―東西冷戦の知られざる内幕(上・下)を書いている。別の機会にぜひ紹介したいと考えている。 (本屋学問) |
二酸化炭素温暖化説の崩壊/広瀬 隆(集英社新書)
別の比較では日本中の一級河川109の全ての量の水を3.1℃上昇させる熱量にも匹敵するとも。改めて、事の重要性を知りました。 原子力発電を推進し正当化するために、二酸化炭素温暖化説を打ち出して(打ち出さざるを得なかった)本質的な問題点を隠してしまっていることが本書によりわかりました。
昨年発行の本書には、既に原発のメルトダウンの危険性を警告していたのには驚きです。エコのため良かれと思ってやっていることでも、実は他で破壊を生んでいる事実があることを知るべきであり、エネルギー問題を自然との共生とのなかでもっと真剣に考えるべきと思いました。 |
イタリア通になれる本−食とライフスタイルで読む本当のイタリア ジュゼッペ・セラヴェッア著/岡本三宣(みよし)訳 オフィスHANS 2008年 ある国の特性を他の国の人々に理解させるのは難しい。書物で理解させるには歴史、言語、風土、芸術、文化、社会習慣、国民性など様々な角度から膨大な記述が必要となろう。そのような書物は膨大なページ数となり、大方の読者は敬遠してしまう。また、それを誰が書くかも問題だ。その国で生まれ育った人は、自国のことはすべてあまりに当然で、何をどう説明すべきか迷い、逆に外国人はとかく皮相的な理解に陥りやすいのではないか? 本書はそのような困難を乗り越えた貴重な一冊である。著者はイタリア南部生まれのイタリア人。日本企業の工場マネージャ、研究開発部長を歴任。イタリア国内および世界各国を回り、その地の生活文化を調べた。訳者は同じ会社で研究開発のリーダーを務め超極細繊維を開発した。旅行好きで地球を35周した由。二人の役割は著者と訳者となっているが、互いに密接に協力しあい実質的な共著である。目次の前の「はじめに」で、訳者がこの本が誕生した経緯を書き、それに続いて著者が「イタリアの感性」を解説している。ファッションの国のイタリア紳士が憧れる靴は、実は正統派のイギリス製であることなど、その国の住人でなければ知る機会もあるまい。また、イタリアの社長・会長クラスの人がイギリス製の靴を履いているのを訳者が確認した埋め草記事は面白い。この二人の稀有な出会いから生まれた本を我々が読めるのはまことに幸運である。
イタリアの国土は南北に長く、寒冷な北部はスイス・オーストリアとアルプス文化圏を構成する。それに引き換え南部はアフリカのチュニスと同緯度にあり、気候風土・気質・ライフスタイルは北部と非常に異なる。北部のレストランは夕方7時半頃から混み始め、10時頃に最後の客が入る。それに引き換え南部では9時半頃から混み始め、真夜中を過ぎても入れる。パスタの包装も北部では中身が見えないダンボール箱を、南部では一部に透明な窓を設けたダンボール箱を、同じメーカが別々に用意しているとのこと。つまるところ個性主義がイタリア文化の特質であろうか。個性的な集団が互いに折り合いをつけて一つの国家を形成していることが面白い。
B5判164ページのコンパクトな本で、イタリア文化が一応分かったような気分にさせてもらったのは有難い。
(狸吉) |
エッセイ 2011年5月分 |
原発について思うこと
鋭い切り口の論客として知られる大前研一氏は、原子力工学の出身でこの分野に詳しい。その氏が、雑誌「プレジデント」に記載している意見が気になる。
東京電力の非主体的態度に付いて 「東京電力に対する非難はもっともであるが、電力会社は国から背中を押されて国策でやっていたわけだからいまさら驚くには当たらないとの事。」そうだったのかと思うと、東京電力の態度も何となく納得が行くのであるが、だとすればそのような矛盾を抱えて今日まで運営して来た、東京電力のその行動は何なんだと言いたい。 結局、東京電力と言う会社は、事なかれ主義の優等生の集まり、無責任集団であってと言う事か。それでは、嘗ての長銀や興銀などの国策会社の破綻とおなじではないか、無責任な優等生の集まりである国策企業に対して、今もって反省が無いとすれば、この国の将来は暗いと思わざるを得ない。
|
蛍の光、窓の雪 2011年3月11日午後2時46分頃、M9.0という最大級の地震が東北地方三陸沖で起こった。そして最大級の津波が岩手、宮城、福島の3県の海岸を襲った。これでも大変な天災であるのに加えて、福島県の太平洋海岸に設置されていた原子力発電装置3基が破壊され送電できなくなっただけでなく、その冷却水が放射能を持ったまま外部に流出し始めたのである。 この原子力発電装置は東京電力が設置したもので、その出力は主として関東地区に送られていたが、それが破損したので当然のことながら十分な電力が供給できず、急きょ関東地区で地域別の緊急停電が実施されることになった。
ついでラジオもテレビも作動しないので、外部情報は遮断されると不安感が起き、これが長く続くとトイレも風呂にも入れそうになくなるような暗い気持ちになり、また暖房も利かなくなってくるので寝るより仕方がないと思った。 ここで、明治時代以前の人々は薄暗い夜をどう過ごしたのかに思いを巡らしてみたい。この時代の人々は、現代と違って夜の景色にも関心があったと思われる。まず夜空に輝く月の存在は、多くの詩歌に読まれているように関心が高く、太陰暦が作られただけでなく、その満ち欠けには細かく名称が付けられ、日々の生活と密接な関係のあったことを窺わせる。 また、夜空に輝く星についてはどうであろうか。現代人特に都会に住んでいる人は星を見ることすら難しくなっており、昔から親しまれていた「北斗七星」「スバル」がどこにあるかすら分からなくなっている。
私自身の経験では、高校生時代寮生活を1年経験したが、夜10時には消灯となるのでローソクをつけて宿題を片付けたことがあったが、あくる日友達に「イッヒ ローベン」とドイツ語風に語ったことを思い出した。 |
日本人と西洋音楽 同じように卒業式では定番の「蛍の光」は、スコットランド民謡であることがよく知られている。こちらは明治初期にあった工部大学校(東京大学工学部の前身)の卒業式で、当時イギリスから招いたスコットランド出身の教師たちが、遠い故郷の古歌を日本の教え子の鼻向けに歌ったのが最初という説がある。
2曲とも1880年代に学校唱歌として採用され、文語調の歌詞とともに近代日本の音楽教育のシンボル的唱歌として定着した。戦後は最近までのある時期、師弟の関係や立身出世、国家護持といった歌詞の内容が民主主義にそぐわないという理由で敬遠されていたが、世の中が成熟社会に向かうにつれてそうした牽強付会的な解釈も薄らいで、最近は再び卒業式に最もふさわしい曲として復権している。 学校唱歌といえば、「故郷」や「朧月夜」の作曲者として著名な岡野貞一は、キリスト教の洗礼を受けて早くから教会のオルガニストを務め、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授として文部省唱歌の制定に貢献したことでも知られているが、多感な少年期から西洋音楽に接していたことは想像に難くない。また、「荒城の月」、「花」の瀧廉太郎もクリスチャンで、若くして東京音楽学校でその才能を開花させ、さらにライプチヒ音楽院でも学んでいる。ただ残念なことに、23歳で夭逝した瀧の未発表の楽譜は、結核の伝染を恐れて死後すべて焼却されたそうである。 それはともかく、最初はまったく異質の文化として西洋音楽に触れた日本人が、次第にその旋律や和音やリズムに親しみ、楽しむことができるようになったのはどうしてだろうか。よくいわれるのは、たとえばスコットランド民謡と日本民謡の音階の共通点である。「よ(四)な(七)抜き音階」といい、主音の「ド」から数えて4番目の「ファ」と7番目の「シ」を使わない5音階で主に旋律を構成するものである。日本の童歌や民謡はほとんどがこの音階だそうで、人間が練習せずに自然に発声でき、覚えやすい音の高さなのかもしれない。 古今の大作曲家も各地の民謡を集め、それを取り入れて数多くの名曲をつくった。だから、同じ響きを持つ西洋音楽に日本人が最初から親近感を抱いても不思議ではない。しかし、日本人は明治になるまで西洋音楽とまったく接点がなかったのかといえば、必ずしもそうではないようである。織田信長や豊臣秀吉、キリシタン大名は宣教師のオルガン演奏を聞いたそうだし、江戸時代初期に長崎で出版された典礼書にはラテン語の聖歌が収められていたという記録もある。
イギリス、フランス、ポルトガル、イタリア、さらにローマのヴァチカンとヨーロッパ各地の図書館に足を運び、7年目の1982年、ようやくスペインのマドリード図書館のカードにそれらしい16世紀の聖歌集を見つけ出した。そして、司書が持ってきた目の前の本を見て、これに間違いないと直感した著者は体が震えたそうである。 さらにその震える手でページを繰り、ついに「ぐるりよざ」の原曲となった聖歌「オ・グロリオザ・ドミナ(O gloriosa Domina)」(栄光の聖母よ)、紛れもないそのマリア賛歌の楽譜にたどり着いた。しかもその歌は、現在も世界中に流布するスタンダードではなく、16世紀のスペインの一地方だけで歌われていた特殊な地域聖歌だった。それが400年前にこの地方出身の宣教師がはるか日本の離島に伝え、厳しい弾圧の下、隠れキリシタンが今日まで命を賭して歌い継いできたというのである。
|
「ほつまつたえ」と古事記・日本書紀の背景
私は学生時代、理屈なしに覚えなければならないという先入観の歴史が嫌いでした。よって、古事記・日本書紀の内容については良く知りません。しかし、縁があって「ほつまつたえ」に嵌まってしまいました。 この「ほつまつたえ」を後半部分から読みはじめ、やっと1/3程、読み通してきました。あと、4、5年で残りの部分も読み通せたらと思っています。先人たちの解釈を参考にしながらですから、もう少し早まれば良いなと思っています。 「ほつまつたえ」の前半部分は紀元前660年ごろ、後半部分が紀元後231年ごろ、時の右大臣によってまとめられ編纂されているものです。つまり、古事記・日本書紀より500年ほど以上昔に編纂されたものです。 この「ほつまつたえ」を読みだして、苦戦している一つに、やたら人の名前が多く、しかも、一人でいろいろな呼び方をされていることです。たとえば、一般的に「やまとたける」と称されている「やまとたけ」の場合ですと、「はなひこ」、「こうす」、「こうすみこ」、「こうすきみ」、「やまとたけ」、「やまとたけみこ」、「あつたかみ(熱田神)」、「きみ」と、幼名、実名、称え名といろいろ出てきます。 しかも、五・七調の歌のなかに合うよう省略言葉になっているときもあります。同じ人なのか、別人なのか、あるいは他の事をいっているのか迷い、別人の事を同一人物と捉えてしまうこともあります。記紀の編者も勘違いしたとしても仕方ないと思うほどです。 そんな中で、「ほつまつたえ」の記述を整理してみると、気になったのが近親婚です。「いとこ同士」の結婚が目についたからです。 例えば、「わかひと」(天照大神)の父親は「いさなぎ」です。その「いさなぎ」の弟を「くらきね」と言います。その「くらきね」に「ますひめもちこ」と「こますひめはやこ」と言う二人の娘さんがおります。この二人の娘が「わかひと」(天照大神)の「すけ妃」、「うち妃」となっています。つまり、「天照大神」と、この「二人のお妃」とは、「いとこ同士」になります。 後にこの二人のお妃は天下を動かす大騒動を起こすことになるので気になりますが、今回のテーマと離れるので後日にいたします。 さて、この「いとこ婚」ですが、儒教の教えでは「いとこ婚」を含め近親婚は野蛮人のすることと考えられています。特に、韓国では同姓同士の婚姻はしないとか、遠くからお嫁さんを迎え入れるとかしているようです。
日本を一流の国として世界に認めてもらうため、古事記・日本書紀が日本の正式な国史として、海外、特に中国に対して、ときの共通語である漢字で編纂したわけです。そのとき、実際の作業に携わった高官は、漢字文化を持った儒教の精神の持ち主であったことが容易に推測できます。朝鮮半島の内乱により日本に亡命してきた高官たちです。金達寿氏の著書に古事記は新羅の、日本書記は百済の高官が書いたとおっしゃっています。
ですから、編者の目から見て、公けの日本の国史に載せる内容に、野蛮人と思われることは外さなければならないと考えても不思議ではありません。儒教の精神を持った彼らの目から見て、「いとこ婚」の事実は隠さなければならなかったからです。不具合個所を切り抜いたため、飛び飛びになって筋道がつながらなくなり、難解なものになったことがわかります。
「ほつまつたえ」のすごいと思ったところは、自分たちに不都合なことでも、言葉をかえたり、ほんの一言だけであったりしていますが、記録として載せているところだと思いました。読み手の技量を確かめられているような気もします。
もっと極端な例では、欠史8代と言われている天皇の部分に、天皇になった弟が実際の兄の娘をお妃に迎え入れている個所があります。名前をかえているので、唯読んだだけでは読みすごしてしまいます。記紀の編者も気づいて、彼らの目には野蛮行為と映り、その関係する一連の所をまとめて抹殺せざるを得ないと判断したと私は思いました。その時の権力者の立場の判断が歴史を塗り替えているということを実感したと同時に、その原因の一つが分かった次第です。
|
活字文化は「死に体」か 活字文化の弱体化が急速に進んでいる。私は、昨年暮れ、マスコミ関係者数十人の一泊旅行に参加した。大新聞の重役OB二人と相部屋になり、雑談の折りに、どこの新聞社も部数減で苦戦を強いられているという話が出た。 そこでお二人に私の持論をぶっつけた。なにより今の新聞は紙面づくりが間違っている。 こうした紙面改革をやれば浮ついた読者は離れ、購読者は減るだろうが、固い層の読者が残る。新聞購読がステイタス・シンボルともなり、新聞の生き残りの可能性が出てくる。むかし鍋、釜を景品に購読者を増やした時代を引きずっていてはダメだ。新聞事業は大部数指向を改めて、適正規模に向かって縮小均衡を図るべきだ、というのが私の持論だ。お二人の大賛同は得られなかったが、「そうかもしれない」程度に認められた。 そんなことがあって今年1月、サッカーの何とか言う世界大会で日本が優勝した。にわかファンの私も、深夜というか夜明けの決勝戦をテレピ観戦して優勝に興奮した。翌朝の大新聞一面に大活字でサッカー記事が載った。しかし、いずれも締切の時間切れで「延長戦に突入」段階までの報道が精一杯。優勝の「ゆ」の字も報道できなかった。テレビの勝ちである。全く同じ内容の記事を日経新聞はスポーツ面に収めていた。矜持のある対応だ。 若者を中心に新聞を読まなくなったと言われて久しい。大学出の若者でも新聞ニュースはネットで読めるとうそぶいて新聞を購読しないことを恥ずかしいなどと思わなくなっている。古くはテレビに食われ、新しくはインターネットに食われ、このままでは新聞の起死回生は困難になってくる。書籍などの活字媒体も電子書籍に食われ始めている。
|
それでも原発は必要です 1.以下は、4月3日に私の親しい友人に打電したメールです。 震災では首相が東電社長を恫喝したとか。「逃げたら東電はつぶれる」と。ある週刊誌によると、社長が社員を退避させたいと言ったからそういったのだという説もあります。そうだったとしたら、社長は社員のことを思ってそう言ったのだと思います。 おまけに「臨界ってなんだ?」と周囲に聞いたそうですから、東工大の関係者は悲しい思いですね。こういう首相を持つ国民が不幸ですが、復興はみんなが頑張れば必ず出来ます。それが出来るのが日本民族です。我々も出来ることからやればよいと思います。 今回の事故もECCSは正常に作動しています。地震には強かったんです。やられたのは津波です。慶長の大地震から昭和8年の地震まで、既にこの地域には30m近い津波が3回も来ています。それを何故津波高さ10mくらいしか想定していなかった?のは、どう考えても納得できません。この地に原発をつくるのであれば、想定津波50mを考えれば大丈夫です。 2.その後、福島第2原発で働いている社員(女性)からのメールが私に届きました。御本人には断りなしの転送ですので、お名前は伏せて頂きますが、やはり日本の現場は強い、使命感に燃えている筈と言う私の考えが証明されています。以下はそのメールの本文そのものです。 今日(注1)の朝方、発電所から避難させられ、福島の親戚の家で家族と合流しました。とりあえず私は無事です。「お前だけは安全な所へ…」と言われ、泣きながら企業さんの車で発電所をあとにしました。本当にこのような事になってしまい、本当に申し訳ありません。 3.危険な原発を安全に運転するには 私は、4月8日にある公の場で、次のように申し上げました。 「福島の事故を聞いた時に、先ず浮んだのが浜岡原発です。風光明媚な海岸に津波に対しては全く無防備で建設されています。Google Earthで見て下さい。東海沖地震で津波が来たら、必ずやられます。ここを安全にするには高さ50mの防波堤が必要と考えています」と。 原子力は危険なんです。危険なものを安全に使うようにするのがエンジニアの使命です。日本では、「原子力は安全なんだ」と唱えることで安全神話をでっちあげ、危険やリスクから逃げて来ました。その手前、今回のような「過酷事故」への対応も中途半端になってきています(このような危険時の対応の法的規制が無い!)。官と民がなあなあでやってきたからです。 5月6日には、菅さんがいきなり中電へ浜岡の停止を要請しました。私と同じように法的な根拠もなく、にです。一国の首相が言うからには、それなりの根拠の明示や議論が必要だと思います。中電では取締役会でも結論が出ず、9日にも取締役会で議論すると報道されています。 以上、原発事故で改めて感じたのは ・日本の現場力の強さとそこに働く皆さんの使命感。だから日本は強いし、これからも発展するという確信。 ・今後の世論として原発は目の敵にされますが、正面から危険性とそれを回避する技術(根拠、裏付け)を国民に全て開示して、原発を促進することの必要性と法整備。 (恵比寿っさん) |